Sýnir færslur með efnisorðinu [本]. Sýna allar færslur
Sýnir færslur með efnisorðinu [本]. Sýna allar færslur

20070615

[表現]バルザック『ゴリオ爺さん』

フランス人作家。現代リアリズム小説の祖と言われる。

表現
  • 「服装はそんなだったが、彼らはほとんどみな、骨組みのがっしりした身体、人生の風雪に耐えてきた体格、冷たくて、かたくなで、通用しなくなった古い貨幣の表面みたいに特徴のない顔を見せていた。」20
  • 「真っ先に社会から利益をしぼりとる人間となるために、あらかじめその学業を社会の未来の動きにに適応させて、すばらしい出世を準備しているといった青年たちのひとりだった。」18
  • 「いったいどんな酸が、この女から女性的な容姿を腐食し去ったのか?」20
  • 「習慣的な愁い顔、もじもじした表情、貧しくひ弱そうな様子」23
  • 「ウージェーヌは男爵夫人の手をとり、ふたりとも、ときどき強く握っては音楽が与える感覚を伝えあいながら、手と手で話した。」261
  • 「父があたしの心臓を作ってくれたけど、それを脈打たせてくださったのはあなたですもの。」431
  • 「女の感情を見抜ける人間にとっては、この瞬間は甘美な喜びに満ちたものである。自分の意見を出し惜しみして相手をじらし、思わせぶりして自分の喜びを隠し、相手に不安を起こさせてそこに愛の告白を探り、ちょっと微笑するだけで解消してやれる相手の心配ぶりを楽しむといったことを、しばしばやってみなかった人間がそもそもいるだろうか?」265
  • 「女のすべての感情を流露させるあの慈愛の行為をできたのが嬉しく、それにその行為が、罪の感情なしに、青年の心臓が自分の胸の上で動悸のを感じさせてくれたので、ヴィクトリーヌの表情にはどこか母性的な保護者といった様子が漂い、それが彼女の顔を誇らしげに見せていた。」324

ボーセアン夫人の科白
  • 「じゃあ申し上げるわ、ラスティニャックさん、世間というものを、その値打ちどおりに扱うことですよ。出世なさりたいとおっしゃるなら、わたしがお助けします。女の堕落がどんなに底深いものか、男のみじめな虚栄心がどんなに幅広いものか、いずれあなたもおわかりになりますよ。わたしはこの世間と言う書物をよく読んだつもりでいましたが、それでもまだ、わたしの知らないページがありました。いまはわたしには何もかもわかりました。あなたは冷静に計算なされるほど、出世なさるのですよ。容赦なく打撃を与えなさい、そうすればひとに恐れられます。男も女も、宿駅ごとに乗りつぶして捨ててゆく乗り継ぎ馬としてしか、受け入れてはいけませんの。そうすることによって、あなたは望みの絶頂に達することができるでしょう。はっきり申し上げるけど、あなたに関心をいだく女性がいないかぎり、ここではあなたは物の数にもはいらないのです。若くて、お金持ちで、上品な、そういう女性があなたに必要なのです。でもあなたがほんとうの愛情を感じたりしたら、それを宝物のように隠しておかなければなりません。けっしてそれを感ずかれないようにすることです、そうでないと、あなたは破滅です。そのときはもう、あなたは死刑執行人ではなくて、犠牲者になってしまうのですからね。まかり間違って恋をしても、あなたの秘密をしっかり守るのです!心を打ち明けようとする相手が、どんな人間かはっきり見定めた上でなければ、その秘密をもらしてはいけませんわ。(略)パリでは、評判がすべてで、権力を手に入れる鍵ですの。女たちがあなたは才気のあるひと、才能のあるひとだと言えば、男たちも、あなたがその評判と逆のことをしないかぎりそれを鵜呑みにするものなのよ。そうすればあなたは、どんなことでも望みどおりにでき、どこへでも出入りできるのです。そうすればあなたにも、世間というものがどういうものか、つまりお人よしとぺてん師の集まりだということがわかるでしょう。どちらの側についてもいけません。わたしの名前を、世間というこの迷路へはいってゆくためのアリアドネの糸として貸してさしあげます。この名前を辱めないでくださいね」139
ヴォートランの科白
  • 「(略)なんならためしてみるがいい。このサラダ菜の根っこと引き換えに、首を賭けたっていいが、君のお気に召した最初の女の家で、たとえそれがどんなに金持ちで美人で若い女であっても、君は雀蜂の巣みたいな混乱にぶつかることを請け合うね。どの女もみんな、法律の首枷をはめられ、何かにつけて亭主と交戦状態にあるんだ。恋人のため、着るもののため、子供のため、家庭のためや虚栄のため、といってもめったに美しい心根からじゃあないことは、保証していいが、どんな醜い駆引きがなされているか説明しなきゃならんとしたら、果てしがないだろうよ。だから正直者ってのは、共同の敵なのさ。しかし、正直者ってのはどんな人間だと思うかね?パリでは、正直者とは黙りこんで、仲間入りするのを断る人間のことさ。なにも、いたるところでつまらん仕事をして、その労働が絶対報いられることのない、神の古靴信者団とおれの呼んでいるあの哀れな賤民どものことを言っているんじゃあない。たしかに、連中の間には美徳があって、その愚鈍さのかぎりを花咲かせているが、しかしまた悲惨がある。もしも神が最後の審判の日に欠席するなんていう、たちの悪いいたずらでもしたら、あのひとのいい連中がどんな泣きっ面をするか、目に見えるような気がするな。というわけで、君がたちまちのうちに出世しようと思うのなら、すでに金持ちであるか、あるいはそう見えなくちゃならんのさ。金持ちになろうと思ったら、この土地じゃあ、思い切った芝居を打つことだ。そうでもしないと、けちけち暮らして、はいご苦労様さ!君が選ぶことのできる百の職業のうちで、十人ぐらいはさっさと成功するのがいる、世間はそういう連中を泥棒と呼ぶ。そこから結論を引き出したまえ。ありのままの人生とはそんなものなんだ。こいつは台所以上にきれいなものじゃなく、同じくらいひどい匂いがする。そしてご馳走を作ろうと思ったら手を汚さなくちゃならん。ただ、あとでそのよごれをきれいに落とすすべを知ることさ。それが、いまのご時世の道徳のすべてなんだ。おれが世間のことをこんなふうに話すのも、世間がその権利をおれに与えた、つまりおれは世間を知っているからなんだ。おれが非難していると思うかね。どういたしまして。世間てのはいつもこうだった。道学者連がなんといったって、変わりっこない。人間は不完全なんだよ。人間は多かれ少なかれ、偽善者になることがあるが、そうすると頓馬な連中は、やれ真面目だ、不真面目だなどとぬかす。おれはなにも、貧乏人のために金持ちをやっつけているわけでもないのさ。人間てのは、上だって下だって、真ん中だって、いつもおんなじなんだ。この高等家畜の群れには、百万人に十人ぐらいの割で、あらゆるものの上、法律の上にさえ立つ図太いやつがいる。おれもその仲間さ。君は、もし優秀な人間だと思ったら、頭を上げてまっすぐ進みたまえ。しかし、羨望とか中傷とか愚鈍さとかと戦わなくちゃなるまいな、すべての人間と。(略)」187
ラスティニャックの科白
  • 彼の目には世間というものが、いったん足を突っこむとずるずる首までもぐってしまう、泥の海のように映るのだった。「そこで行われるのはしみったれた犯罪ばかりだ!」と、かれはつぶやいた。「ヴォートランのほうがずっと偉い。彼は《服従》と《闘争》と《反抗》という、社会を表現する三つの大きな要素を見きわめていた。つまり《家族》と《世間》と《ヴォートラン》だ」 それでいて彼は、態度を決めかねていた。《服従》は退屈であり、《反抗》は不可能で、《闘争》はあやふやなのだ。彼の思念は、ひとりでに彼を家族のもとへと連れ戻した。彼はあの静かな生活の清らかな感動を思い出し、自分をいつくしんでくれた人びととの間ですごした日々を回想した。家庭というものの自然の掟を忠実に守って、そのなつかしい人びとは、そこに充実した、間断のない、そして何の苦悩もない幸福を見出しているのだ。そんな殊勝な考えにもかかわらず、彼はデルフィーヌの前に出て清らかな魂の信条を告白し、《愛》の名において《美徳》を命令するためだけの勇気が、どうしてももてなかった。始まったばかりの彼の教育が、すでに実を結んでいたのである。彼はすでに利己的に恋していた。生来の俊敏さのおかげで、彼はデルフィーヌの心の性質を見抜いていた。舞踏会へ行くためなら父親の死体でも踏みにじりかねない女だと、予感していたのであり、それでいて彼には、説教師の役割を演じる気力も、夫人の機嫌をそこねる勇気も、彼女を捨てるだけの道徳感もなかった。」446
  • 「美しい魂を持っていると、この世間に長くとどまっていることができないんだ。実際、どうして偉大な感情が、みみっちくて、しみったれていて、浅薄な社会などとおりあってゆけるだろうか。」464

語句の意味

かもじ
  • かもじとは、もともと結髪に使う「添え毛・入れ毛・足し毛」のこと。髢。
象嵌
  • 象は「かたどる」、嵌は「はめる」と言う意味がある。象嵌は、一つの素材に異質の素材を嵌め込むと言う意味。

  • 戸・窓・障子などの周囲の枠
矍鑠(かくしゃく)
  • 「矍」とは「おどろく・いさむ」姿の意味、「鑠」とは「さかん」と言う意味。2つを合わせて、「年をとっても元気なさま」という意味で年老いた人に対して使われる。

20070612

[本]ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』

ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』岩波文庫

あらすじを少々

主な登場人物は4人の孤児。ポール、エリザベート、ジェラール、アガート。
ポールは同じ学校の悪ガキダルジュロスを崇拝。しかし、学校をリタイアしてからその感情はダルジュロスの写真に移り、アガートたちと住むようになってからは彼女の中にダルジュロスの面影を見つけ、最終的に彼女に対して愛情を抱くようになる。エリザベートの弟。
ジェラールはポールの同級生。ポールがダルジュロスに対して抱いている感情を、ポールに対して抱く。目覚めつつ夢を見るという不思議な恍惚状態をポールから学び、その不思議な感性をポールそのものとして、その魅力を感じている。どういう流れか不明だが、少女から娘と成長したエリザベートに愛情を抱くようになる。しかし長年の付き合いの中で、彼女に愛情を与えることは彼女から愛情を奪う、という矛盾に思える繊細な洞察をし、彼女を自分の中で聖処女として位置づけただ偶像的に理解するようになった。
アガートはエリザベートの同僚。「マネキン」と呼ばれるファッションモデルの仕事を行う。いつからかポール、エリザベート姉弟と住むようになる。ポールに愛情を抱くが、エリザベートの策略によって、ポールへの気持ちを無理やり断ち切られ、最終的にジェラールと婚姻する。
エリザベート。弟に対して倒錯した愛情を抱いている。その愛情をどう評価するか、というのがこの小説の主な主題一つと考えられる。

ダルジュロス。ポール、ジェラールの同級生。意識的に無意識的にポールに影響を与える。現実というポールの狭い世界の中で、彼に対して唯一強烈に際立っていた存在。その容姿や立ち振る舞いの中に何らかの魅力を感じていた。登場場面はほとんどないが、重要人物。


単語の意味

中風
  • 脳卒中。脳出血によって、半身または腕・足など身体の一部がマヒして感覚がなくなり、自由が効かなくなる病。
軒蛇腹
  • 軒近くに設けた蛇腹。
  • 軒(のき):屋根の下端で、建物の外壁から張り出した部分。風雨や日光をよける。
ためつすがめつ(矯めつ 眇めつ)
  • 〔動詞「たむ」「すがむ」の連用形に完了の助動詞「つ」が付いたもの〕いろいろな方からよく見るさま。とみこうみ。「―して見る」

20070605

[本]田中ランディ『オクターヴ』

田中ランディ 『オクターヴ』ちくま文庫


マホが、バリでの通過儀礼を経て、「社会を超えて〈世界〉にコミットしながら、でも社会の中で生きていく」あり方に変容するお話。音-絶対音感、世界-社会。

あらすじ

マホは行方不明となったミツコを探しに、日本からバリへやってくる。ミツコとは音大時代からの友人。二人の共通点はピアノ。ミツコの奏でるピアノの音は、単なるピアノの音という枠に収らず、なにか新しい世界を切り開くような特別な力を持った音だった。音楽の神様が降りてきたようなその音に、聴く者は皆魅了された。天才であった。一方マホは、ピアニスト崩れの母に幼少の頃からピアノ教育を施されていた。だが、その才能はなく、長い鍛錬の中で習得されていたのは絶対音感だけ。マホと母親を結びつけていたピアノという唯一の絆を壊さないようにマホはピアノを弾いていた。ピアノは生きる意味と同化していた。高校生の時から、母からピアノの才能がないと不平を言われることが多くなり、母は弟のピアノ教育に必死になった。その時マホは自分が失敗作なのではないかと感じた。そのことがあって、ある時からマホは母の声が単なる音階にしか聞こえなくなりそれによって自分が自分でないように感じてしまう発作が起こるようになる。またその際、記憶が途切れ途切れで曖昧になり、無自覚のうちに母の首を何度か絞めたりした。解離性障害と診断された。

大学を卒業したしばらく後、マホはフリーライターに落ち着く。ミツコは作曲家や演奏者として世に出ようとしていた。だが、ミツコは突然姿を消してしまう。しばらくしてマホの許に三通の絵葉書が届く。どうやらミツコがバリから送ったらしい。しかし、三通目を最後に音信が途絶えてしまった。果たしてミツコが無事か心配になったマホは、ミツコの下宿先へ手紙を送ってみる。返信がきたが、それはミツコによるものではなく、下宿先の人からだった。

20070531

[本]斉藤環『心理学化する社会』

  • 昨今は「心理学ブーム」
  • 動機のはっきりしない事件が起こったとき、三十年くらい前なら、事件についてコメントを依頼されるのは、小説家や評論家であったが、いまや、心理学者や精神科医にコメントが求められることが多い。それは「 「誰が人間の専門家か」 という意識が変わりつつあるためだ。」「心理学者が人間について最もよく知るものという役割を、社会的に期待されるようになってしまったのだ。」3
  • 「他人に向けて自らのトラウマ、すなわち心の傷について語ったり、あるいは自らを傷つけて見せ、その傷を公衆の面前にさらけ出して、いっそう傷を広げたりするような行為。こういう、いくぶんグロテスクな身振りが、作品や表現として多くの人に受け入れられはじめている。」5
  • 「多くの人々が「トラウマ語り」に魅了され、それを語ることでそこから癒されたがっているという状況」「トラウマのインフレーション」6
  • いまや「普通」は「物語の空白地帯」であり、そのことが人々の言葉から強度を奪ってしまうというのだ。」20
  • 「悪いのは「トラウマ」ではない。その取り扱いが、一種の紋切り型としてパターン化されていく過程のほうが問題なのだ。そして、予測可能なパターンのこれほどまでの蔓延は、それが作家の怠惰でなければ、物語の堕落以外の何ものでもないだろう。」21
  • 「トラウマ的な体験を描写する際、(村上春樹のように)なぜ残虐さが必要になるのか。それはトラウマが本来、安易なイメージ化にそぐわない、直視できない性質のものだからである。要するに彼らはちゃんと「語り方」を心得ているし、その節度ゆえに信頼に値するのだ。フィクションにおけるトラウマをめぐる問題は、どうやらその扱い方、語り方の問題とうことになるのではないか。」22
  • 「人々は、なんらかの方法で、心を実体化、あるいは可視化したいと願っている。心というつかみ所のない存在に形を与えながらドラマを構成しようとすれば、トラウマこそがうってつけの素材であることは論をまたない。」56
  • 「まず、いかなる描写であれ、けっしてトラウマは観客に共有され得ないことを忘れるべきではない。それはあくまでも観客の享楽のために描かれるのであって、告発や風刺とトラウマは原則的に相性が悪い。また、虚構としてトラウマを描くとき、精神医学的な正確さはむしろ物語を殺してしまう。それは必ず、教科書的な図式の退屈な反復に陥ってしまうだろう。トラウマがいかなる効果をもたらすか、ここにおいて作者の創造性が最大限に発揮されるべきなのであり、専門家による「荒唐無稽」といった悪口を恐れるべきではない。(略)逆に、復讐や悪事の動機としてトラウマを描くことは、映画を台無しにするための近道である。動機としてのトラウマは、最悪の図式の一つであるからだ。むしろ人物のキャラクター設定や、サイドストーリー的な要素として取り込むほうが効果的である。つまるところ、トラウマを扱う際の最大の原則は、「トラウマそのものを直接に描いてはいけない」ということに尽きるだろう。なぜならトラウマが効果を発揮するのは、それが常に「覆われた状態」において、であるからだ。」54
  • 「いまや人々は、何かを強く欲することで行動するのではない。物語を動かす道具立てとして、単なる性欲や物欲-つまり「金と女」-ではすでに力不足なのである。そして、これらに代わって人々を動かすもの、それこそが「トラウマ」なのではないだろうか。そう、われわれはもはや不可能になった「大きな物語」にかわり、たとえばトラウマにはじまる「小さな物語」のほうを欲し始めているのだ。」57



  • 社会学的視点から見た社会の心理学化 筆者が引用した樫村愛子氏の著作から孫引き「教育・福祉・家庭などの様々な領域で心理療法の技術が多く使用されるようになり、文化の中での心理療法的言説の比重が大きくなってくるような状態」168
  • 「そのとき心理学は、社会が共有している幻想の舞台裏を暴いて解体してしまうが、心理学そのものが別の秩序や幻想をもたらすことになる。」168
  • 「当時(大正時代)の心理学(ブーム)にはもう一つ重要な役割があって、それは軍隊の適正検査だった。戦争神経症しかり、PTSD概念しかり、心理学や精神分析は戦争によって進歩してきたともいえるだろう。」169
  • 「 「人の心を知りたい」欲望は、心理学の知識が蓄積され、多様化し、さらに一般に普及するにつれて、いよいよ高まる。」「ブームが必ずしも進歩の証とは考えない。むしろ、進歩が不確実だからこそ、ブームが起こるのかもしれない。」169

  • 「20世紀は精神分析の世紀とも呼ばれたが、それは同時に、「精神分析以後の世界」であることも意味している。」
  • 「僕たちは、いまや精神分析的な知識に基づいて自己分析し、抑圧の鎖を自分で解き放ってみせる。」170
  • 「たとえばネット上の匿名掲示板などは、人々がどのように振舞うことで抑圧を解除したつもりになれるのか、その見本市のようなものだ。弱者への差別的な罵倒、近親相姦を含むさまざまな欲望の表明、残虐な暴力衝動の発露。しかし多くの掲示板が匿名であることを考えるなら、そんなふうに「抑圧しない」身振りで、人々が何を抑圧しようとしてるのが、そちらの方を考えてしまいたくなる。抑圧しないこと」によって隠蔽されるもの。それこそが倫理の審級としての「無意識」ではないだろうか。彼らは単に露悪的なのではない。自己分析に基づく「邪悪な欲望」の告白によって、「倫理的に振舞いたい」という、本来的な欲望を隠そうとしているのだ。あるいはそこには、「欲望の不在」への欲望が隠されているのかもしれない。ともあれ精神分析以後の世界では、僕たちの欲望もこんなふうに、はじめから精神分析化を被ってしまう。」「精神分析プレイ」171
  • 「フロイトも指摘しているように、誰にとっても「自己分析」は不可能」「治療関係こそが分析の本質なのであって、自己分析は一般論にしかならない。そして一般論というものは、ついには自分にとって都合のいい解釈でしかないのだ。」171
  • 「断っておくが、ネガティブな解釈のほうが「都合がいい」ことだって珍しくない。たとえば自罰的なことばかり言う人が、全然謙虚じゃなくて、むしろかたくななことが多いのは、その人にとって「自罰」のほうが「都合のいい」事情があるからだ。」171

20070526

[本]東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』

途中


なにやら、オタクとポストモダンなんちゃら。ポストモダンにおいて物語的な想像力がどのように展開していくかのパースペクティブ、みたいな。


序章/議論の導入
・「ポストモダンの進展とオタクの出現は、時期的にも特徴的にも関係している。」16
・ポストモダン=「大きな物語」の衰退
・「十八世紀の末から一九七〇年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統の共有で確保されていた。ひとことで言えば、きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。」17
・「ポストモダン論の提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有すべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである。」19
・「しかし、一九七〇年代以降の「ポストモダン」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる、別の感性が支配的となる。そして、日本でも一九九〇年代の後半からその流れが明確となった。」18
・「ポストモダンにおいても近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダンの相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。」19
・「ポストモダンにおいては、すべての「大きな」物語は、ほかの多様な物語のひとつとして、すなわち「小さな物語」として流通することが許されている(それを許せないのがいわゆる原理主義である。)ポストモダン論は、このような状況を「大きな物語の衰退」と呼んでいる。」20
・「現在の日本では、オタクたちの作品や市場が、そのようなポストモダンの性格をもっとも克明に反映し、表現や消費のかたちをもっとも根底的に変えている。」17
・「したがって筆者は、二〇〇〇年代の物語的想像力の行方について考えるために、まずは、その物語の衰退にもっとも近くで接しているはずの、オタクたちの表現に注目するべきだと考える。これが本書の出発点である。」17


筆者によるライトノベル考察
・「キャラクターのデータベースを環境として書かれる小説」45
・キャラクターのデータベース=キャラクターの自律化と共有財化。作品と作品のあいだに広がる想像力の環境。
・キャラクターの自律化=「キャラクターの性質がドラマ(の可能性の束)に優先していく」41、「物語ではなく、キャラクターのほうが基礎的な単位として感覚される」42
・「ライトノベルの作家と読者は戦後日本のマンガやアニメが育て上げてきた想像力の環境を前提としているために、特定のキャラクターの外見的な特徴がどのような性格や行動様式に結びあわされるのか、かなり具体的な知識を共有している。」45、「描写とキャラクターのデータベースのあいだで仮想的な対話を行い、その結果そのものを文章のなかに組み入れて描写」、語り手と読み手のあいだの一種の共犯関係
・ライトノベルのキャラクター 「個々の物語を超えたデータベースの中に存在している。少なくともそう想像されている。」「さまざまな物語や状況のなかで外面化する潜在的な行動様式の束」
・ゆえにどのジャンルにも登場できる。
・製作において、作品(物語)の層と環境(データベース)の層が別々に存在する環境におかれている。


ライトノベルとポストモダンの関係
・「オタクたちが作り上げたキャラクターのデータベースは、まさに、決定的なひとつの物語を成立させないにもかかわらず(キャラクターが物語を逸脱してしまうと言う意味で)、複数の異本としての物語をつぎつぎと成立させてしまう(ひとりのキャラクターから複数の物語が生成すると言う意味で)という点で、ポストモダンの物語製作の上限を体現する存在だと言える。」50
・「筆者はポストモダンでは「大きな物語」が衰えるため、小さな物語はむしろ増殖し氾濫するように見えると指摘した。」50
・「 「ライトノベルはポストモダン的な小説である」という本書の主張は、必ずしも作家がその位置を自覚していることを意味しない。作家のひとりひとりは締め切りに追われながら、より売れる小説、より人気の出る小説を作ろうと努力しているだけかもしれない。しかし、その素朴さゆえに、ライトノベルの想像力はオタクたちの動物的な消費原理を、すなわちポストモダンの時代精神をみごとに反映してしまう。」50
・「ライトノベルのポストモダン的な性格を、小説内容そのものにではなく、小説と小説のあいだの環境に見ている(略)。」53

・「いわゆる「ポストモダン文学」は、小説の内部でいくら前衛的な実験を行っていたとしても、現実には保守的な文学作品として流通している。彼らの小説は文芸誌に掲載され、文学賞を受賞し、大学で教材として取り上げられる。その環境はポストモダンの条件からほど遠い。」
・「ライトノベルは、かりにその小説の内容こそ類型的な凡庸なものだったとしても(略)その制作や流通の過程は近代文学のそれから大きく離れている。」53


「まんが・アニメ的リアリズム」なるもの
・大塚英志がライトノベルを論じるに当たり導入した概念
・ライトノベル以外の小説はすべて現実を「写生」するものであると捉え、一方でライトノベルは「アニメやコミックという世界の中に存在する虚構を「写生」する」ものと捉える。
・虚構の写生
・自然主義的リアリズム-描写の起点としての「私」を必要とする創作手法
 まんが・アニメ的リアリズム-「私」や生身の身体を持つ人間ではなく架空のキャラクター 58

コミュニケーションとしてのリアリズム
・公共性-「人間と人間が、共同体的な限界を超えて出会う場所」
・近代社会もポストモダンの社会も、村落共同体を超えて成立する巨大な組織なのだから、必然的にそのような場所を必要とする。」
・稲葉振一郎氏によれば近代文学の自然的リアリズムも、ポストモダンのまんが・アニメ的リアリズムも、まさにその場所を作り出す装置として解釈できる、と筆者は言う。
・「表現はそのまま現実を向かいあうわけではない。いかなる表現も、市場で流通するかぎり、発信者と受信者のコミュニケーションを抜きにしては成立しない。」62
・「自然主義文学の作家は、現実を描くべきだと感じたからでなく、現実を描くとコミュニケーションの効率がよいので、現実を写生していた。同じようにキャラクター小説の作家は、キャラクターを描くべきだと感じているからではなく、キャラクターを描くとコミュニケーションの効率がよいので、キャラクターを参照している。」62
・「架空世界のガジェットからなる「データベース」は、今日の文芸の世界において、ある意味ではほとんど「現実世界」の代替物と言いうるほどのところにまで発達してきてしまっているのです。」62
・大塚はコミュニケーションの効率性の基盤それぞれを「リアル」と呼んだと理解すればいい。63

・公共性を得るまでに発達したキャラクターの「データーベース」。それは戦後のアニメ・マンガの想像力が育て上げてきた。