Sýnir færslur með efnisorðinu [Web]. Sýna allar færslur
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20070607

[Web]タネの話 はみだしもの

大人の科学.net 連載 タネの話 第12回 

シーズンでない時期に芽吹いた固体、花をつけた固体が同時に映っている写真を参照して
  • 「両親と同じではない程度が大きいと、変わりモノ、はみだしモノと言われるのですが、そのはみだしモノこそが、これまで両親が住めなかった所で生活できたり、これまでとはちがう季節に花を咲かせたり、進化のパイオニアになっているのですから、はみだしモノ、バンザイです。」

20070606

[Web]webちくま 鷲田清一「可逆的?」 13 〈死〉の人称

webちくま 鷲田清一「可逆的?」

13 〈死〉の人称

一人称の死の物理的経験不可能性
  • 経験は死とともに不可能になるからだ。いいかえると、死はいつも経験の彼方にある。死は現在(presence)になりえない。死はいつも不在(absence)として迫ってくるものである。
  • これに対して、他人の死はまぎれもない経験として生じる。だれかに死なれるという経験として。無関係なひとの死はひとつの情報として経験されるにすぎない であろうが、深い関係にあるひとの死は、「失う」という経験、(他者の、ひいては自己の)喪失の経験としてまぎれもないひとつの出来事となる。
一人称の構造
  • ひとはだれかに呼びかけられることによってはじめて、他者の意識の対象としてはじめて自己の存在を〈わたし〉として感じることができる。生涯だれにも呼びか けられることがなかったひとなど、想像しようがない。「だれもわたしに話しかけてくれない」と嘆きつつみずからいのちを絶つひとはあっても。
  • 〈わたし〉の存在には「わたし/あなた」という自他の人称的な関係が先行している

二人称的死-一人称的死-非人称的死
  • 〈わたし〉は「他者の他者」としてあるとするならば、わたしをその思いの宛先としていた二人称の他者の死は、わたしのなかにある空白をつくりだす。死というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならないからである。
  • 「死ぬ」ではなく「死なれる」ことが〈死〉の経験の原型だと言うときには、わたしの身に起こること、つまりはわたしの死は、二人称である他者の喪失を想像 的に自己に折り返したところに成り立つということが含意されている。
  • いいかえると、「自己の死」には、「他者の不在」という概念を自己のなかに反照させた 擬似二人称的な死であるということが含意されている。それは、わたしにとっての〈わたし〉の死ということなのである。
  • すでにそこに自他の可逆的な人称関係は含意されているわけだから、この〈わたし〉の特異性は存在としてはすでに媒介されたものだということになる。わたし がじぶんの死について語るときには、それはすでに「わたし」と「あなた」の可逆性に媒介された言説のレベルで言われているのであるから、そのときにはも う、「わたしの死」の単独性や特異性は概念として成り立っているにすぎないことになる
  • それは、純然たる一人称を超えるものを含んでしまっ ている。この意味で、「わたしの死」について語る言説は、「死なれる」という二人称の死から派生したある非人称的な語りなのである。わたしはそういう非人 称的な語りによってしか、自己の〈死〉にふれることができない

締め
  • 〈死〉と〈生〉の関係についてもそのことがおそらくは言えるであろう。〈死〉は、わたしにとって経験の、したがってまた意味の消失であるかぎりで、無意味 なものである。どこまでも不在のものである。その無意味なもの、不在のものについての語りのなかで〈生〉の意味が彫琢される。そのかぎりで、「死は生に意 味を与える無意味である」(V・ジャンケレヴィッチ)、と。


★鷲田氏は「わたしの死」を(非人称的に)語る前に、「わたし/あなた」という可逆的な言葉を習得した時点で、他に大勢いる「わたし」という語の発話主体とは区別される「特異性」や「単独性」をもった一人称的な〈わたし〉、純然たる一人称は成立しなくなるということを前提しているように思える。純然たる一人称とは何だろうか。「わたし」という語に不可逆性を付与したものだろう。他の何ものでもないこの「わたし」。しかし、「わたし」という言葉自体、「あなた」という二人称との可逆性の中からしか生まれることのできない関係的な概念で相対的なものに過ぎないので、そのようなものに、直感的に取ってつけたように「不可逆性」を付与してしまうと、その不可逆的性質をもった「わたし」と言う語は、本来想定されていた「わたし」という語から見ると屈折したものになってしまう。「わたし」という語が可逆的に適用可能である語という説を採用し、その視点から見た場合、不可逆的なわたし-「特異性」や「単独性」を持った純然な一人称的わたし-は奇妙なものとなる。可逆的用法の「わたし」を土台として不可逆的用法にの「わたし」を創出して主張するのは、砂の上に建物を建ててその堅固を主張するくらい、不安定で説得力のないものであると思う。他と代替不可能な「わたし」を語るために、「わたし」という語を使う、それを使って考えるのは語義矛盾であり、別の表現を考えた方が妥当であると思う。

★「特異性」や「単独性」を持った何かがもしあるとしたら、それは「わたし/あなた」関係以前のものだろうか。「わたし/あなた」の可逆的関係が適用可能であることによって「わたし」という語を習得し、わたしという意識が生じる。では、わたしだけのわたし、たる所以はなんだろうか。わたしが意識的にしろ無意識的にしろ巻き込まれている「二人称の関係」の総体なのだろうか。

★一人称の死は純粋に経験不可能。二人称の死は経験可能(三人称の死も可能)。一人称を表す語である「わたし」が成立するためには他者が必要不可欠。他者との接触により「他者の他者」として自己を認識。即ち「わたし/あなた」という語が可逆的な関係にあることの認識。他者がいて、その他者の他者たるわたしがいる。その関係は両者が存在している場合に成り立つ。二人称的他者の死が意味するのは、わたしがその他者となっている他者が死んでしまったということであって、即ち「わたし」を再帰的に構築していた「他者の他者」という関係性が消滅してしまうということである。

[Web]MouRa 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』インタビュー

MouRa
  • あなたの「愉しみたい」「識りたい」をモウラする講談社の〈才能ポータル〉とのこと。講談社のネットコンテンツ。


FRAMES INTERVIEW 06 東浩紀インタビュー
  • 「ところが、いままでは文学史は常に純文学史であり、純文学の外側からどんなひとが「越境」してきたかという、ある意味では傲慢な視線しかもてなかった。僕はその視線を相対化したかったんです。」
  • 「『ゲーム的リアリズムの誕生』は、純文学を中心として文学全体を語る、現在の文芸評論の呪縛を解体するために書かれている。」「むしろ、異なった文学環境に生きる人々が、それぞれの立場を相対化するためのコミュニケーションツールとして書いています。」
  • 「そもそもオタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。きわめて 動物的で快楽主義的であると同時に、妙に実存的で人間的でもあるわけです。それがオタクたちの作品の特徴ですよね。前回はその「動物化」の側面に焦点を当 てたわけですが、今回はその両義的なところから新しい「文学性」を──と言って言いすぎであれば、新しい文学についての語り方を導き出せないかと思って本 を書いたわけです。」
  • 「 そもそも言葉というのは、現実から乖離(かいり)しているにもかかわらず、世界と直結しているような気がしてしまう媒体です。その「カン違い」、つまり自然主義は世界中で生まれている。だから、自然主義文学批判はどこででも成立する。」
  • 「しかし、日本では──この発見は大塚英志の天才的な着想だと思うわけですが――、手塚治虫によってマンガでも世界を描けるというカン違いが起きた。文学の カン違いが、マンガのカン違いに転移したわけです。しかも、ライトノベルは、そのマンガのカン違いが文学に逆輸入されて生まれている。つまり、カン違いが 三重に重なっている。こういうふうにライトノベルのキャラクターには変わった歴史的経緯があるので、記号と現実の関係を考えるうえで、その様態を分析する のはとても面白いと思います。」
  • 「本をちゃんと読んでくれればわかるのですが、僕が「メタ物語」と言っているのは、物語の自己言及性のことではなく、物語の要素であるはずのキャラクターが 物語を横断してしまう特徴のことです。現在では、作品の制作過程で物語の作成と同じくらい、あるいはそれ以上に「キャラを立てる」ことが重視されますよ ね。しかし、キャラクターというのは、それを「立てた」瞬間に、複数の物語が自動的に召喚されるような存在なのです。これを、僕は「メタ物語的」な環境と 呼んでいる。だから、別にメタフィクションじゃなくても、キャラクターが立って、2次創作を生み出せるようなライトノベルは、すべて原理的に「メタ物語 的」な存在なのです。」

[Web]Webちくま連載 加藤典洋「21世紀を生きる生きるために必要な考え方」

webちくま  筑摩書房が展開するネットコンテンツ。ライターは十五人程度。

加藤典洋「21世紀を生きる生きるために必要な考え方」

Q76 子供を叱ることについて
  • 「そこにあるのは、第一に、喫煙は身体によくない、という風潮の中で、でも個人の嗜好でタバコを吸うのはオーケー、という嗜好の強さへの身体の反応(ま、僕 のコトバで言うと私利私欲となりますが)が、弱いということ、また、法律を含め、ルールというのは江戸時代のように、お上が作るのを下々が「守らなければ ならない」というものではなくて、「自分たちが決めて、自分たちが守る」自分たちの約束ごとだというルールの感覚(同じくこれが、公共性の感覚、ですね) が、身体に入っていないという弱さだったと思います。」
  • 「ご質問の方が、子供を叱れない、と感じるのも、こういうことが、どうも自分で確信をもてなくなってきていることの、現れだろうと思います。」「よく頭ごなしに叱るのはよくない、と言いますが、叱ることの中には、「頭ごなしに」叱る、相手に理解できるようにではなく、説得できないままに、叱りつけ る、という側面があります。どうも自分には叱れない、という感じが起こるのは、あることを叱るとして、なぜそれがいけないことなのか、子供にもわかるよう に説明することが自分にはできそうにない、と感じられるからでしょう。」「 というわけで、叱られることを通じて、頭がまだ理解しないことのうちに、大切なことがずいぶんとこの世にはあるらしい、ということを、身体が学ぶ、ということが、子供の身体感覚に入ります。」
Q83
  • 「質問をはっきりとしたくない。尋ねているわけではない。もし回答があったなら、それは回答者が勝手に何か書いているので、自分は知らないヨ、という感じ。そういう感じを与える人を、時々見かけます。コミットすることが負担になるのかもしれません。」

20070521

[web]個性にしか回収されない車いす

「車いすは個性だ」

都合のいい言葉。
誰に向けて発せられた言葉なのか。
しかし、この表現で妥協しておくしかないのかもしれない。
問題は複雑。
個性に回収して思考停止。
それが楽でいいのかも。

発する立場によって温度が異なる言葉。温度差。
しかし、その温度差をはじめから前提とし、許容しているようにみえる言葉。
それは、この温度差を埋めるために必要な前段階としての自己(他者)認識の発現なのか。
それとも、マイノリティのナルシズム。
マジョリティが聞いても安心できる言葉。
お互いいい気持ちでいるための便利な言葉。

何かを棚上げにしている気がするが、さしあたり皆がこの言葉を聞いて、快く思っているのなら、価値のある言葉といえなくもない。

[web]“ハッカー大国”露政府、IT国エストニアにサイバー攻撃か

概要
「ロシアとの関係が悪化している旧ソ連バルト三国の一つ、エストニアの政府機関や銀行のコンピューター・ネットワークが、約3週間にわたってロシアからの猛烈なサイバー攻撃を受けている。エストニアは、一部の発信元がクレムリンやロシア政府のコンピューターであると主張し、北大西洋条約機構(NATO)も調査に乗り出した。ロシアは国としての関与を否定しているものの、今回の事態は改めて“サイバー戦争”の脅威を想起させている。(タリン 遠藤良介)」

波紋
「しかも、政府の専門家が調査したところ、初期の攻撃ではクレムリンやロシア政府のIPアドレスが使われていたことが判明。アビクソ国防相は14日の欧州連合(EU)国防相会議に際して「現在のNATOはサイバー攻撃を軍事行動とはみなしていないが、この問題は近く解決されるべきだ」と述べ、NATOが加盟国へのサイバー攻撃をも集団的自衛権発動の対象に含めるべきだとの考えを示した。」

ロシアの対応
「クレムリンの報道官は再三にわたってロシアの関与を否定し、ハッカーがクレムリンや公的機関のコンピューターを装って攻撃を仕掛けている可能性を指摘した。」

20070121

[Web]グーグルと英軍、テロリストによるGoogle Earthの利用について協議

グーグルと英軍、テロリストによるGoogle Earthの利用について協議 - CNET Japan

この記事によれば「Google Earthの航空写真を利用したテロリストがバスラ(イラクの地名)の英軍基地をピンポイント攻撃したという証拠が発見された」とのことである。それに対応して英軍とGoogleとの間に協議が持たれたということは、Google Earthがテロリストの軍事活動に使われるほど高い機能性持つということを英軍が認めたということだ。機能性に関してはもはや軍隊からもテロリストからもお墨付きをもらったといってもいい。

Google Earthによって全世界の全地域の衛星写真を手に入れることが可能になったということは、「衛星写真で世界観光地巡り」などといった新しい娯楽が開拓されると共に、軍事的にも新しい可能性を開拓した。Google Earthの衛星写真の解像度は、テレビのニュースでたまに見かける米軍軍事衛星による衛星写真の解像度に劣ってはいるものの、かなり高い。その衛星写真からは自分の住んでいる家だって発見できるし、車も把捉できている。さらに、マウスでカーソルを合わせると、合わせたその地点の経度・緯度が表示される機能も付いている。テロリストはこれらの機能に目をつけて、それを利用して英軍基地をピンポイントで攻撃したということだ。詳しい攻撃方法については書かれていないが、記事によると、英軍のある部隊のインテリジェンスオフィサーなる地位の人が言うには、「英軍の見解では、テロリストは、テントなど防御の弱い場所を特定するためにGoogle Earthを利用しているのだと考えている」そう。また、Google Earthから取り出した画像のプリントアウトの裏には英軍が配置されている建物の正確な経度・緯度がメモ書きされていたという。重ねて言うが、英軍がくらった攻撃は一体どのようなものだったのだろう。そこを書いてくれないとテロリストの攻撃とGoogle Earthの関連性があまりはっきりとイメージしにくい。インテリジェンスオフィサーとかいう人の発言だけ書かれてもよくわからない。

それにしてもGoogleには驚愕。GoogleによるITインフラの革命によって、軍事的に転用可能な技術が裏社会というアンダーグラウンドな世界だけで流通するものにとどまらず、普通にネットでアクセスできるようになったのだ。Google Earthに限らず、専門性が高すぎたり、費用があまりにも高すぎたりするが故に公的な機関や少数の者しか持てなかった「特別な技術」が、Web2.0の到来により、その敷居が官ではない民の普通の人たちまで下がりつつあるように思われる。


テロ目的であれ何であれ、そのような技術を民間で有効に活用しつくす人は今のところそう多くはないと思われるが、技術の門戸を広く開放することについては、何だか無条件に「いいなぁ」と思ってしまう。
しかし、何だか「いいなぁ」と感じるこの態度に、むしろ小さな違和感や不安を感じる。やたらめったら「民主化」してもいいのだろうか。

やはり民主化というイデオロギーは強力。思考回路にも浸透する。でも、強力すぎて何だか逆にちょっと怖くなってしまう。