20070131

[メモ]屠殺 または と殺

屠殺
  • 「屠殺は、人間が家畜を飼うようになって以降、肉を食べたりその皮革を利用するために行われてきた。それ以前には、野生動物を捕獲する際に致命傷を与えるなどして殺害していたが、これは「捕殺(ほさつ)」とも呼ばれ、動物を捕らえるために殺す・その肉体を確保するために殺す行為(→捕食)であることから、屠殺とは区別される。」
  • 「都市構造の発生・発展に伴い、次第に分業化と一元化されるようになってきた。古くは各家庭もしくは酪農家で家畜の生命を絶つ行為が一般的に成されていた物が、肉屋などの専門業種による屠殺へと変化し、更にはと畜場や食肉工場といった専門施設における集中処理へと変化し、世間一般の目には触れないようになっていった。」
  • 「これらは主に、動物の生命を絶ち食肉に加工する上で発生する血液や食品廃材といった副生成物(産業廃棄物)の処理や、あるいは食糧生産や環境に対する衛生面での配慮、加えて「殺害する」という面での倫理的な不快感といった事情にも絡んでの分業化・一元化であるが、特に宗教などの食のタブーといった理由から、特定の処置が食料生産に求められる地域では、一種の宗教的な施設であるという側面も持つ(→カシュルートシェヒーターなど)。」


屠殺の思想

  • 「屠殺では、その行為によって動物が苦しまないようにとの配慮が成されている場合も多い。近年では動物虐待に対する忌避感もあるが、その一方で過度に暴れさせるような屠殺は動物に不要且つ過剰な苦痛を与えるだけでなく、従事者にとって危険であり作業効率も悪い。このため多くの社会では、より速やかに且つ苦しませずに動物を絶命させる方法が研究されてきた。」
  • 「現代では先進国を中心に、炭酸ガス麻酔、あるいは頭部への打撃や感電による失神の後に首の動脈を切断することによる失血死、あるいは失神後に脳組織を物理的に損傷させることで生命活動を停止させる方法が取られている。しかし宗教的な理由にも絡み、古くからの伝統的な屠殺方法を取っている事の多いイスラム圏などでは、後肢に綱を掛け頭部を下にして吊るしたら、間を入れずに動脈を切断し、ある程度は空中で暴れさせて、急速に失血死させる方法を取っている。」
  • 「なお失血死という方法は、肉に血液が残る量が最小限に抑えられ、肉の劣化や腐敗を遅らせる効果もあっての事で、特にこれは冷蔵庫が普及する以前は、鮮度の低下で廃棄される肉を最小限に抑えるための技術でもあった。この技術が発達した背景には食中毒の予防と同時に、犠牲となる生命に敬意を払い、無駄を最小限とするための倫理的な思想も見出される。」
  • 「肉食という行為は、動物の生命を頂く事で自らの生命を永らえさせるものである。このため犠牲となる動物に感謝を捧げる思想も見られ、その感謝の意味で苦しませる事への忌避も見られる。その延長で動物の苦痛に対しても言及している文化もあり、例えばユダヤ教では「一回の切断で致命傷を与える(何度も切り付けない)」ために、屠殺に使う刃物(ナイフ) は「良く研磨されているもの」と定めている。これは「よく切れる刃物で切り傷を負った場合は、一時的な麻痺により負傷直後は余り痛みを感じない(後に治る 過程での痛みはある)が、切れ味の悪い刃物で怪我をすると、切った直後から酷く痛む」という人間自身の経験によるものであると考えられる。」

屠殺の現場

化製場
  • 「化製場(かせいじょう)とは、死亡した家畜の死体などを処理する施設の総称。法律及び業務内容から、死体の解体及びその後の埋却もしくは焼却のみを行なう「死亡獣畜取扱場」と、真の意味での化製場(後記参照)とに分けられるが、殆どの場合は一つの施設で両方の役割を担っている事が多い。」
  • 「設置に際しては「化製場等に関する法律」に基づいた都道府県知事の許可が必要になり、鶏などの家禽及び魚介類のみを扱う場合でもこの法律が準用される。また、原料の調達はその会社自らが行なっている場合が多く、原料を運ぶ車輌はそれ専用の物が必要となる。このため、動物質原料運搬業の営業許可を併せて取得している場合が殆どである。」
  • 「施設の外見は普通の工場と大差はないが大雑把に言うと、家畜を食用目的でと殺する際に生じた食用に適さない部分(内臓や骨など)を主な原料として油脂類・ゼラチン類のほか、石鹸・ペットフード・肥料・化粧品の原料、及び肉骨粉などを製造する工場である。原料はこの他に食肉加工場でトリミング(形を整えたり、重量を揃えるための行程)を行なう際に生じた屑肉や余分な脂肪、食用目的でと殺する前に農場で死亡した家畜の死体そのもの(感染症で死亡したものは除く)なども含まれている。」
と畜場
  • 「と畜場(とちくじょう、漢字制限以前は屠畜場)は、牛や豚、馬などの家畜を殺して(とさつ)解体し、食肉に加工する施設の法律上の定義の名称である。」
  • 「現在、各施設の具体的名称は、「食肉処理場」「食肉センター」などの名称が付されているものが多」く、「主に、食肉加工会社や第三セクターによって設置され、食肉市場を併設していることが多い。」
  • 「と畜場法に基づく食肉用動物である家畜(日本では牛、馬、豚、緬羊、山羊の5種類の家畜のみで鹿や猪は法の対象外)は、搬入されシャワーで汚れを洗い流してから食肉衛生検査所の獣医師の免許を持つ「と畜検査員(ほとんどは都道府県や政令指定都市の 職員)」による病気等外観の検査(生体検査)を受ける。屠殺は、前頭部への打撃あるいは電撃によって昏倒させたあと頸動脈を切開し、両後肢の飛節に通した 鉄棒で吊り上げ、失血死させるという方法で行われる。屠体はそのまま施設の天井に取り付けたレールに沿って各作業配置を順に廻り、解体されていく。途中で 適宜と畜検査員により病変組織のサンプリングと検査が実施される。解体順序はごくおおざっぱに言って、頭部切断・剥皮・内臓の摘出・背割り・枝肉検査など と続き、半頭分の肉の塊(半丸枝肉)となる。たいていは解体ラインの階下に白モツなどの内臓を分別・洗浄・パッキングするための作業場があり、ラインで切り離された臓器をシュートに投入することにより下の作業場に送られる仕組みになっている。」
  • 「食肉市場で取引された枝肉はここから町の精肉店や、スーパーマーケットなどに搬送され、ももやヒレなどの部位ごとに小分けされて、一般に市販される。」
  • 「O157やBSE対策のため小規模施設の多くは廃業し、残った施設も衛生対策のため施設の新築等を行なった。 牛についてはトレーサビリティ対応を行なっている。」
その他

と殺に関する通常の認識について:
生きた牛と、食卓の肉料理の間がブラックボックスになっている」

差別用語とされる「屠殺」という表記法について:

差別は意識の問題であり、差別語をなくしても差別は無くならない。それどころか差別の実態を見えなくしてしまう危険性をはらんでいる

参考:

と殺-Wikipedia    (但参考時070131)
化製場-Wikipedia  (同)
と畜場-Wikipedia   (同)


20070129

[メモ]マース・カニングハム

モダンダンス、ポストモダンダンスの両方に位置しているとされるダンサー


モダンダンスにおけるプリミティブ

モダンダンスとは、二十世紀初頭クラシック・バレエのアカデミズムに対抗して登場してきた舞踊とそれに連なる流れを指す。しかし、内容面では主として文学的主題を扱い、形式面ではクライマックス中心の構造を堅持し、身体の動きによる内的主観世界の表現の探求として、主観と芸術の関係性に傾斜した19世紀的なロマン主義、表現主義、象徴主義のプレモダン的な性格を残す。


モダンダンスに色濃く残るプレ・モダニスト性に対する批判的な態度

舞踊の主題は踊ることそれ自体にあるのであって、ことばによって表現できる類ではないという態度。動きを文学的内容や感情の記号ではなく、「動きとしての動き」「動きそのもの」として捉え、そこに内在する表現可能性が求められる。


カニングハムが重視したもの

動きを通して他の何ものかの「再現」や「表現」するのではなく、動きがそれ自体として持っている表現力・喚起力をそのまま引き出そうとする試み。動きそのものによる表現・喚起効果はその時その場に応じ、個人によって異なったものとして「発見」される。そこにおいて観客は作品の消費者ではなく生産者となる。観客は自らに与えられるべき作品的なものを、自ら見出す。「カニングハムの重要性は、私たちが眼にし耳にするようにそこに与えられているものにのみあるのでなく、そこに与えられているものを私たちが眼にし耳にする仕方の内にある。」


カニングハムのダンス・その方法的特徴
  • 舞踏を他の芸術の先導や補助から解放し、また動きが自己自身以外のもの再現や表現という役割から解放し、それによって動き自体の構成を獲得する振り付けのために、「偶然性」を重視。偶然によるダンスの進行。次に何が起きるのか決めるのではなく、どのように決定が行われるのかを決めるのみ。
  • 多様な動き、多様な構成を目指すものとして、「日常の動き」を振り付けとして取り入れる。
  • 音楽・舞踊・舞台装置を連携させず、相互に独立した演出。(動きの自律を顕在化させるため、比較によって顕在化しているのをわかりやくするための演出。比較することに頼っている時点で、逆に音楽・舞踊・舞台装置は厳密な意味では独立ではなく、むしろ演出の上で大きく依存している。)非協同的協同制作。
  • 脱中心化、平等主義。作品の明確すぎる統一感や観客に単一の焦点を押し付けたりするのをさけて作品を開かれたままの、不確定状態へ置く。「どのポイントも平等に興味深く、平等に変化していくこと」が念頭に置かれている。舞踏、照明、装置、音楽はそれぞれ独立の中心をなし、舞踊家の動きも空間全体に均質に配分され、随時舞台の正面に来るものが入れ替わり拡散する。


参考:

『帰宅しない放蕩娘』 外山紀久子 勁草書房

[メモ]人間疎外

人間疎外

 市民社会
  • 十八世紀後半、産業革命と市民社会を迎えたヨーロッパ
  • 国家権力と明白に区別された「経済社会」ないし「産業社会」「市民社会」と名づけられる新しい様相の登場。政治社会-経済社会(市民社会)
  • 「自由競争」「市場経済」を原理として持つ
  • ヨーロッパにおいて産業革命が勃興。それにより物資の大量生産が可能となる。生産物を売る市場、または買う市場を求めてヨーロッパ文化圏から他の文化圏へ接触。軍事力を背景に植民地という形で支配。内に市民社会(資本主義)、外に植民地支配(帝国主義)。 
 人間疎外
  • 市民社会における矛盾。
  • 市民社会(経済社会)における弱肉強食に端を発する。抑圧階級-非抑圧階級。
  • 市民社会における、人間らしさの喪失。非人間性。
  • マルクスの疎外論:「まず労働者は自分のつくった労働生産物から疎外され、つぎに労働を自らの行為として感じることができず、そして人間らしさを失って動物並みの欲求水準に落ち、また階級対立によって対等なコミュニケーションから除外される」。資本主義においてはそのような疎外は必然的であるとした。(マルクスはそのような「疎外」の解放手段として共産主義を構想)
  • 本来は人間の主体的活動であった労働とその(結果としての)生産物が、利潤追求の手段となり変わり人間が労働力という商品に還元されることによって、人間が資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われる。人間が作ったものが人間を離れ、人間を支配してしまうことによって人間的らしさ(類的性質)が見失われる。働く喜びの喪失から発展する、人間らしさからの疎外。
  • ヘーゲルにおいて疎外は、人間の認識の深化・発展のための不可欠の一契機として考えられられる。疎外の解放手段(矛盾の解決手段)は「人倫」最高形態たる国家に求める。


参考:

『ヨーロッパ社会思想史』 山脇直司 東京大学出版会
疎外-ウィキペディア
 (但参照時070128)

20070123

[メモ]Wilhelm Dilthy(1833-1911)

講義「現代哲学」のノートを整理。
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現代哲学 Wilhelm Dilthy

講義ノート

 ディルタイの哲学:人間の「生」中心の哲学
          合理的思考を乗り越えようとする哲学   理性<直観


「生」、個人:心配ごとや悩みに翻弄される「心理的生命」の側面
       他にも「文化的生命」の側面もあるという。

cf.-ヘーゲルの「客観的精神」と似ているとのこと     
  -文化的生命とは、例えば、文学・宗教・組織形態など
  -哲学もそのような文化的生命の一つの形態である 


生命→経験からしか知ることができない
しかし、経験から知られるといっても、その知り方はただの経験主義から区別される。
感覚的経験主義ではない。感覚によって生命を捉えるのではないという。

彼によれば、

生命:
  • それぞれ独立した諸部分からなる全体ではなく、有機的な全体であって分析できない。 
  • 生命は「概念」ではなくて、「経験」であるとのこと。

さらに、

「生命を知る」ことは生命を「理解する」ことである。
「理解する」とは、「全体の意味を捉えること」である。
すなわち、「複合的な事態を一つの意味として捉えること」、それが「理解する」ことであるとディルタイは主張。
彼によれば、生命の中から生命は理解できる、と。
(cf.この立場は、ベルグソンの用語「直観」が持つニュアンスと似ているとのこと。)



  • 生命哲学の入り口:私たちには生命があるから自分の生命に立ち戻ることができる。

  • 「理解」における見解。ハイデガーとディルタイの類似性。
  • 理解という行為がなされるときには、行為者が何らかの立場に立ってそこから解釈を行う、ということが起こるのであって、ただ端的に「理解する」という理解行為というのはないのではないか。ハイデガーの「理解」観はこのようなものであったが、ディルタイもこの「理解」観と近いものを持っていた。

・プラトン・アリストテレスの哲学というのは、「普遍」をめぐる学問であったが、一方でディルタイの標榜する「生の哲学」では「普遍」ではなく、「生」を扱う。

・生の哲学は「生」の全体の見通しを得るものである。生命は有機的な全体で全てが繋がっているので「分析」的解釈はムリ。よって全体を見渡せる「見通し」が必要。

・生の哲学はどのように展開していくか。

  • 具体的現象を、内(生命の?)から追経験しようとする形で生命を理解しようとする。
  • そこにおいては、「記憶」が大事との事。
  • 記憶は、過去の理解を通して現在を理解する。さらには、未来に対する「先取り」なるものも行う(記憶が、過去の理解を通してか?不明)。
  • このように生命は、ひとまず「時間的なもの」である。
  • それでは、さらなる生命の理解はどうやって深めればいいのか?
  • 曰く、「理解」には「カテゴリー」が必要である、と。(そこら辺カント的)。ディルタイは、生の構造を「カテゴリー」で浮き彫りにしようと試みる。
 
*「カテゴリー」。カントの場合は、物理的対象の分析用に用いた概念装置であり、その領域では「因果性」が重視されていた。しかし、ディルタイは「カテゴリー」を、カントのようなものではく、生命そのものを特徴付ける範疇であると考えていた。
*カントは、感覚の根拠、判断を可能にするそもそもの「形式」として「カテゴリー」を設定していた。ディルタイは、生命以外の立場から生命を測るべきでない、とする。
*ディルタイは、やはり生命の内側から生命を特徴づける範疇を探さねばならない、という立場から、範疇は数式にはなりえないということを主張。
*生命のカテゴリーは様々にあって、少しずつ発展していく、という立場。



*それではどういうカテゴリーが想定されるのか
   EX. 「内と外」: 内→私の意識の中 外→私の意識の中を表現すること。私によって表現された、私の意識の中。
例えば、上記のような範疇が、これから豊かに発展していく範疇のひとつ。

さらに、

範疇 その2  
  • 「力」 :力とは、対象に対する影響力を指す。単なる物的な力だけでなく‥云々(失念)

範疇 その3 
  • いくつかの部分から成っていながら、一つの全体をなしている。だが、分割はできない。質的に違った部分が一つの全体を構成する。(これは範疇か)
範疇 その4 
  • 「手段―目的という意味連関」。生命は目的を追求するわけだから‥云々(失念)
ディルタイによれば、生きているから豊かになろうとする、とのこと。「豊かになる」は未来における一つの目的である。現在の段階でそれを先取っている。
 


・範疇 その4について。

*「手段―目的」の理解について。フランス革命の例。
われわれは、フランス革命の「目的」をその出来事の「意義」を通して理解するのである。

*生命は、その完全的な在り方においては、「ダイナミックな目的」を持つ。生命を経験するんだ、と。ディルタイにおいては、経験概念が中心的であるとのこと。
ディルタイは、イギリス経験論の狭さを開放する。経験とは→意味を経験すること、
と捉える。

 *さらに、問おう。「意味ある」経験はどのように成り立つのか、
 *具体的経験の中には色々なカテゴリーが含まれている。カテゴリーの大部分は無意識的に働いている。例えば、「内」と「外」とを自然に区別している。
 *さらに例えば、バラを見て美しいと思うとき。「目的がある」「発展するものだ」「全体としてなりたっている」とバラを見ている。それらが潜在的に含まれているという。
  具体的経験の中に生のカテゴリーが潜在的に含まれる。
 *それを後で反省して、具体的経験から「生」というものを浮き彫りにしていく。
 *ある経験をしたら、それを解釈しようとする。そのことが「生」を理解しようとすることになる。
*その理解する作業を進めていくと、芸術・倫理・哲学が生まれる。個別のケースから一般的なことを言おうとするのである。
*それを発展させて言語化する。そのような過程で世界観が誕生してくる。

*個別的な諸経験に基づいて、「生」という全体を捉えようとする過程で、世界観がまとめられる。

*認識の展望性というキーワード。私たちは、(世界観によって)全体を全体として捉えられるか。ディルタイによれば、それだけを完全に捉えることはできないが、全体の「暗示」は含まれるという。認識の展望性というのは、全体の暗示。

*展望性の中に暗示される全体性をどのように説明できるか、というのがディルタイの哲学における課題である。

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ディルタイ関連

[ディルタイ- Wikipedia]
[生の哲学 - Wikipedia]
[西洋哲学学説]
[カント × ディルタイ]

20070121

[Web]グーグルと英軍、テロリストによるGoogle Earthの利用について協議

グーグルと英軍、テロリストによるGoogle Earthの利用について協議 - CNET Japan

この記事によれば「Google Earthの航空写真を利用したテロリストがバスラ(イラクの地名)の英軍基地をピンポイント攻撃したという証拠が発見された」とのことである。それに対応して英軍とGoogleとの間に協議が持たれたということは、Google Earthがテロリストの軍事活動に使われるほど高い機能性持つということを英軍が認めたということだ。機能性に関してはもはや軍隊からもテロリストからもお墨付きをもらったといってもいい。

Google Earthによって全世界の全地域の衛星写真を手に入れることが可能になったということは、「衛星写真で世界観光地巡り」などといった新しい娯楽が開拓されると共に、軍事的にも新しい可能性を開拓した。Google Earthの衛星写真の解像度は、テレビのニュースでたまに見かける米軍軍事衛星による衛星写真の解像度に劣ってはいるものの、かなり高い。その衛星写真からは自分の住んでいる家だって発見できるし、車も把捉できている。さらに、マウスでカーソルを合わせると、合わせたその地点の経度・緯度が表示される機能も付いている。テロリストはこれらの機能に目をつけて、それを利用して英軍基地をピンポイントで攻撃したということだ。詳しい攻撃方法については書かれていないが、記事によると、英軍のある部隊のインテリジェンスオフィサーなる地位の人が言うには、「英軍の見解では、テロリストは、テントなど防御の弱い場所を特定するためにGoogle Earthを利用しているのだと考えている」そう。また、Google Earthから取り出した画像のプリントアウトの裏には英軍が配置されている建物の正確な経度・緯度がメモ書きされていたという。重ねて言うが、英軍がくらった攻撃は一体どのようなものだったのだろう。そこを書いてくれないとテロリストの攻撃とGoogle Earthの関連性があまりはっきりとイメージしにくい。インテリジェンスオフィサーとかいう人の発言だけ書かれてもよくわからない。

それにしてもGoogleには驚愕。GoogleによるITインフラの革命によって、軍事的に転用可能な技術が裏社会というアンダーグラウンドな世界だけで流通するものにとどまらず、普通にネットでアクセスできるようになったのだ。Google Earthに限らず、専門性が高すぎたり、費用があまりにも高すぎたりするが故に公的な機関や少数の者しか持てなかった「特別な技術」が、Web2.0の到来により、その敷居が官ではない民の普通の人たちまで下がりつつあるように思われる。


テロ目的であれ何であれ、そのような技術を民間で有効に活用しつくす人は今のところそう多くはないと思われるが、技術の門戸を広く開放することについては、何だか無条件に「いいなぁ」と思ってしまう。
しかし、何だか「いいなぁ」と感じるこの態度に、むしろ小さな違和感や不安を感じる。やたらめったら「民主化」してもいいのだろうか。

やはり民主化というイデオロギーは強力。思考回路にも浸透する。でも、強力すぎて何だか逆にちょっと怖くなってしまう。