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現代哲学 Wilhelm Dilthy
講義ノート
ディルタイの哲学:人間の「生」中心の哲学
合理的思考を乗り越えようとする哲学 理性<直観
「生」、個人:心配ごとや悩みに翻弄される「心理的生命」の側面
他にも「文化的生命」の側面もあるという。
cf.-ヘーゲルの「客観的精神」と似ているとのこと
-文化的生命とは、例えば、文学・宗教・組織形態など
-哲学もそのような文化的生命の一つの形態である
生命→経験からしか知ることができない
しかし、経験から知られるといっても、その知り方はただの経験主義から区別される。
感覚的経験主義ではない。感覚によって生命を捉えるのではないという。
彼によれば、
生命:
- それぞれ独立した諸部分からなる全体ではなく、有機的な全体であって分析できない。
- 生命は「概念」ではなくて、「経験」であるとのこと。
さらに、
「生命を知る」ことは生命を「理解する」ことである。
「理解する」とは、「全体の意味を捉えること」である。
すなわち、「複合的な事態を一つの意味として捉えること」、それが「理解する」ことであるとディルタイは主張。
彼によれば、生命の中から生命は理解できる、と。
(cf.この立場は、ベルグソンの用語「直観」が持つニュアンスと似ているとのこと。)
- 生命哲学の入り口:私たちには生命があるから自分の生命に立ち戻ることができる。
- 「理解」における見解。ハイデガーとディルタイの類似性。
- 理解という行為がなされるときには、行為者が何らかの立場に立ってそこから解釈を行う、ということが起こるのであって、ただ端的に「理解する」という理解行為というのはないのではないか。ハイデガーの「理解」観はこのようなものであったが、ディルタイもこの「理解」観と近いものを持っていた。
・プラトン・アリストテレスの哲学というのは、「普遍」をめぐる学問であったが、一方でディルタイの標榜する「生の哲学」では「普遍」ではなく、「生」を扱う。
・生の哲学は「生」の全体の見通しを得るものである。生命は有機的な全体で全てが繋がっているので「分析」的解釈はムリ。よって全体を見渡せる「見通し」が必要。
・生の哲学はどのように展開していくか。
- 具体的現象を、内(生命の?)から追経験しようとする形で生命を理解しようとする。
- そこにおいては、「記憶」が大事との事。
- 記憶は、過去の理解を通して現在を理解する。さらには、未来に対する「先取り」なるものも行う(記憶が、過去の理解を通してか?不明)。
- このように生命は、ひとまず「時間的なもの」である。
- それでは、さらなる生命の理解はどうやって深めればいいのか?
- 曰く、「理解」には「カテゴリー」が必要である、と。(そこら辺カント的)。ディルタイは、生の構造を「カテゴリー」で浮き彫りにしようと試みる。
*「カテゴリー」。カントの場合は、物理的対象の分析用に用いた概念装置であり、その領域では「因果性」が重視されていた。しかし、ディルタイは「カテゴリー」を、カントのようなものではく、生命そのものを特徴付ける範疇であると考えていた。
*カントは、感覚の根拠、判断を可能にするそもそもの「形式」として「カテゴリー」を設定していた。ディルタイは、生命以外の立場から生命を測るべきでない、とする。
*ディルタイは、やはり生命の内側から生命を特徴づける範疇を探さねばならない、という立場から、範疇は数式にはなりえないということを主張。
*生命のカテゴリーは様々にあって、少しずつ発展していく、という立場。
*それではどういうカテゴリーが想定されるのか
EX. 「内と外」: 内→私の意識の中 外→私の意識の中を表現すること。私によって表現された、私の意識の中。
例えば、上記のような範疇が、これから豊かに発展していく範疇のひとつ。さらに、
範疇 その2
- 「力」 :力とは、対象に対する影響力を指す。単なる物的な力だけでなく‥云々(失念)
範疇 その3
- いくつかの部分から成っていながら、一つの全体をなしている。だが、分割はできない。質的に違った部分が一つの全体を構成する。(これは範疇か)
範疇 その4
- 「手段―目的という意味連関」。生命は目的を追求するわけだから‥云々(失念)
・範疇 その4について。
*「手段―目的」の理解について。フランス革命の例。
われわれは、フランス革命の「目的」をその出来事の「意義」を通して理解するのである。
*生命は、その完全的な在り方においては、「ダイナミックな目的」を持つ。生命を経験するんだ、と。ディルタイにおいては、経験概念が中心的であるとのこと。
ディルタイは、イギリス経験論の狭さを開放する。経験とは→意味を経験すること、
と捉える。
*さらに、問おう。「意味ある」経験はどのように成り立つのか、
*具体的経験の中には色々なカテゴリーが含まれている。カテゴリーの大部分は無意識的に働いている。例えば、「内」と「外」とを自然に区別している。
*さらに例えば、バラを見て美しいと思うとき。「目的がある」「発展するものだ」「全体としてなりたっている」とバラを見ている。それらが潜在的に含まれているという。
具体的経験の中に生のカテゴリーが潜在的に含まれる。
*それを後で反省して、具体的経験から「生」というものを浮き彫りにしていく。
*ある経験をしたら、それを解釈しようとする。そのことが「生」を理解しようとすることになる。
*その理解する作業を進めていくと、芸術・倫理・哲学が生まれる。個別のケースから一般的なことを言おうとするのである。
*それを発展させて言語化する。そのような過程で世界観が誕生してくる。
*個別的な諸経験に基づいて、「生」という全体を捉えようとする過程で、世界観がまとめられる。
*認識の展望性というキーワード。私たちは、(世界観によって)全体を全体として捉えられるか。ディルタイによれば、それだけを完全に捉えることはできないが、全体の「暗示」は含まれるという。認識の展望性というのは、全体の暗示。
*展望性の中に暗示される全体性をどのように説明できるか、というのがディルタイの哲学における課題である。
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ディルタイ関連
[ディルタイ- Wikipedia]
[生の哲学 - Wikipedia]
[西洋哲学学説]
[カント × ディルタイ]
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