20070531

[表現]乙一 白

『さみしさの周波数』角川スニーカー文庫

未来予報
  • 「中学生や高校生の友達もいて、そういった年上の人たちは僕にとってほとんど恐怖だったのに、彼は親しげにコカ・コーラのペットボトルを回し飲みするのだ。」22
  • 「しかしあれはどうも男らしくない気がして好かんのだ。だって耳を覆う部分がふわふわしているのだ。あれは女子供がつけるものであり、男子高校生がつけるものではない。」30

『暗いところで待ち合わせ』幻冬舎文庫
  • 「トイレで少し吐いた。恐ろしかった。」13
  • 「しかし今、ミチルの周囲はいつも暗い。お化けを恐がるためにはまず、声で時刻を知らせてくれる時計に今が夜かどうかを聞くか、カズエに辺りが暗いのかどうかをたずねなくてはならない。今もお化けは少し恐い。だから夜になると、自分には関係ないのに一応、電気をつける。それでも、家の中という限定つきで、暗闇は毛布のように心地よくなった。」14
  • 「食器たちの抗議活動だったのだろう。」18
  • 「この家の持ち主である本間ミチルが、二時間以上前からずっと、石油ストーブの前で寝転がっている。」22
  • 「だったんです。」「どうするのー!?」
  • 「ただ、毎日を寝転がって過ごしているだけだ。」
  • 「その人物は、パンの残りが少ないことを憂鬱に思うけちな女が存在するなどど、思っていなかったのだ。」89
  • 「そういえば、前の写真、現像したけど、ほしい? いちおう、ほしい。 ミチルはそう答えながら、画像が凹凸なって表現される写真が発明されればいいのにと考えた。」97
  • 「音を立てないように気をつけて、窓についた水滴の曇りを左手で拭った。左手のひらが、冷たく濡れる。部屋の中は暖かいはずだったが、手についた水滴の冷たさが腕を伝わり、背中から足先まで抜けた。」22

『平面いぬ。』集英社文庫

BLUE
  • 「手作りのぬいぐるみを売って細々と生活している」176
  • 「ぬいぐるみ一体分を切り抜いても、骨董屋で手に入れた生地には余裕があった。まだいくつかこの生地でぬいぐるみが作れそうだと思い、ケリーはうれしくなった。」178
  • 「湿ったベッドに倒れこむ」181
  • 「ぬいぐるみとして生まれたブルーにとって、子供に愛されることは生きる理由そのものだった。子供にだきしめられる以外の生き方など最初から知らなかった。一度でもいい、いつか自分がばらばらにされるのなら、ウェンディが他のぬいぐるみにそうするように、ただあたり前にだきしめてほしかった」207
  • 「ケリーに会いたくなった。またあの頃のようにみんなでモノポリーをして遊べたらどんなに楽しいだろうと考えた。泣きたかったが、ぬいぐるみに涙腺はなかった。」218
  • 「子供に喜んでもらえるといい。ブルーは期待で胸の縫い目がはりさけそうだった。」192

[本]斉藤環『心理学化する社会』

  • 昨今は「心理学ブーム」
  • 動機のはっきりしない事件が起こったとき、三十年くらい前なら、事件についてコメントを依頼されるのは、小説家や評論家であったが、いまや、心理学者や精神科医にコメントが求められることが多い。それは「 「誰が人間の専門家か」 という意識が変わりつつあるためだ。」「心理学者が人間について最もよく知るものという役割を、社会的に期待されるようになってしまったのだ。」3
  • 「他人に向けて自らのトラウマ、すなわち心の傷について語ったり、あるいは自らを傷つけて見せ、その傷を公衆の面前にさらけ出して、いっそう傷を広げたりするような行為。こういう、いくぶんグロテスクな身振りが、作品や表現として多くの人に受け入れられはじめている。」5
  • 「多くの人々が「トラウマ語り」に魅了され、それを語ることでそこから癒されたがっているという状況」「トラウマのインフレーション」6
  • いまや「普通」は「物語の空白地帯」であり、そのことが人々の言葉から強度を奪ってしまうというのだ。」20
  • 「悪いのは「トラウマ」ではない。その取り扱いが、一種の紋切り型としてパターン化されていく過程のほうが問題なのだ。そして、予測可能なパターンのこれほどまでの蔓延は、それが作家の怠惰でなければ、物語の堕落以外の何ものでもないだろう。」21
  • 「トラウマ的な体験を描写する際、(村上春樹のように)なぜ残虐さが必要になるのか。それはトラウマが本来、安易なイメージ化にそぐわない、直視できない性質のものだからである。要するに彼らはちゃんと「語り方」を心得ているし、その節度ゆえに信頼に値するのだ。フィクションにおけるトラウマをめぐる問題は、どうやらその扱い方、語り方の問題とうことになるのではないか。」22
  • 「人々は、なんらかの方法で、心を実体化、あるいは可視化したいと願っている。心というつかみ所のない存在に形を与えながらドラマを構成しようとすれば、トラウマこそがうってつけの素材であることは論をまたない。」56
  • 「まず、いかなる描写であれ、けっしてトラウマは観客に共有され得ないことを忘れるべきではない。それはあくまでも観客の享楽のために描かれるのであって、告発や風刺とトラウマは原則的に相性が悪い。また、虚構としてトラウマを描くとき、精神医学的な正確さはむしろ物語を殺してしまう。それは必ず、教科書的な図式の退屈な反復に陥ってしまうだろう。トラウマがいかなる効果をもたらすか、ここにおいて作者の創造性が最大限に発揮されるべきなのであり、専門家による「荒唐無稽」といった悪口を恐れるべきではない。(略)逆に、復讐や悪事の動機としてトラウマを描くことは、映画を台無しにするための近道である。動機としてのトラウマは、最悪の図式の一つであるからだ。むしろ人物のキャラクター設定や、サイドストーリー的な要素として取り込むほうが効果的である。つまるところ、トラウマを扱う際の最大の原則は、「トラウマそのものを直接に描いてはいけない」ということに尽きるだろう。なぜならトラウマが効果を発揮するのは、それが常に「覆われた状態」において、であるからだ。」54
  • 「いまや人々は、何かを強く欲することで行動するのではない。物語を動かす道具立てとして、単なる性欲や物欲-つまり「金と女」-ではすでに力不足なのである。そして、これらに代わって人々を動かすもの、それこそが「トラウマ」なのではないだろうか。そう、われわれはもはや不可能になった「大きな物語」にかわり、たとえばトラウマにはじまる「小さな物語」のほうを欲し始めているのだ。」57



  • 社会学的視点から見た社会の心理学化 筆者が引用した樫村愛子氏の著作から孫引き「教育・福祉・家庭などの様々な領域で心理療法の技術が多く使用されるようになり、文化の中での心理療法的言説の比重が大きくなってくるような状態」168
  • 「そのとき心理学は、社会が共有している幻想の舞台裏を暴いて解体してしまうが、心理学そのものが別の秩序や幻想をもたらすことになる。」168
  • 「当時(大正時代)の心理学(ブーム)にはもう一つ重要な役割があって、それは軍隊の適正検査だった。戦争神経症しかり、PTSD概念しかり、心理学や精神分析は戦争によって進歩してきたともいえるだろう。」169
  • 「 「人の心を知りたい」欲望は、心理学の知識が蓄積され、多様化し、さらに一般に普及するにつれて、いよいよ高まる。」「ブームが必ずしも進歩の証とは考えない。むしろ、進歩が不確実だからこそ、ブームが起こるのかもしれない。」169

  • 「20世紀は精神分析の世紀とも呼ばれたが、それは同時に、「精神分析以後の世界」であることも意味している。」
  • 「僕たちは、いまや精神分析的な知識に基づいて自己分析し、抑圧の鎖を自分で解き放ってみせる。」170
  • 「たとえばネット上の匿名掲示板などは、人々がどのように振舞うことで抑圧を解除したつもりになれるのか、その見本市のようなものだ。弱者への差別的な罵倒、近親相姦を含むさまざまな欲望の表明、残虐な暴力衝動の発露。しかし多くの掲示板が匿名であることを考えるなら、そんなふうに「抑圧しない」身振りで、人々が何を抑圧しようとしてるのが、そちらの方を考えてしまいたくなる。抑圧しないこと」によって隠蔽されるもの。それこそが倫理の審級としての「無意識」ではないだろうか。彼らは単に露悪的なのではない。自己分析に基づく「邪悪な欲望」の告白によって、「倫理的に振舞いたい」という、本来的な欲望を隠そうとしているのだ。あるいはそこには、「欲望の不在」への欲望が隠されているのかもしれない。ともあれ精神分析以後の世界では、僕たちの欲望もこんなふうに、はじめから精神分析化を被ってしまう。」「精神分析プレイ」171
  • 「フロイトも指摘しているように、誰にとっても「自己分析」は不可能」「治療関係こそが分析の本質なのであって、自己分析は一般論にしかならない。そして一般論というものは、ついには自分にとって都合のいい解釈でしかないのだ。」171
  • 「断っておくが、ネガティブな解釈のほうが「都合がいい」ことだって珍しくない。たとえば自罰的なことばかり言う人が、全然謙虚じゃなくて、むしろかたくななことが多いのは、その人にとって「自罰」のほうが「都合のいい」事情があるからだ。」171

20070530

[表現]田中ロミオ・山田一

ライター・田中ロミオの作品から。気に留まった表現、語彙を抜粋。

家族計画
  • 「胸を張って、名誉と命にかけて、法的実行力をともなった誓約書にサインと拇印を押したものにかけて、そう断言できるのかしら?神かけて、天と地にかけ て、インディアンの掟にかけて、ハンムラビ法典にかけて、主君の名にかけて、誓うことができるのかしら?あなたの言うところの好意が、何ら邪心のない汚れ なき心から生まれ出た完全で一分の隙もない徹底的絶対的かつ完璧で純粋な究極人間愛に基づく『好意』であると───青葉は息を吸った。言えるの?」

setsuei
  • 「木訥で言葉少なな人」
  • 「つまらない考えに耽溺してしまった」
  • 「子供じみた焦燥に駆られ」
  • 「悲しみは曇りガラスを透かした太陽のように曖昧で不確かだった」
  • 「外は寒いばかりで、低い冬の空はこの家と同じに狭く息苦しい」
  • 「世界を覆っていた真っ白い色彩に目を細めた。まるで白い闇。視界を失っていたのはほんの一瞬だ。目が慣れてしまえば冬の光はなんの力も持たないことがわかってしまう。」
  • 「頬が切れるほど寒い」
  • 「バカ、ブス。なけなしのボキャブラリーを総動員して、精一杯の捨て台詞を投げ捨てる」
  • 「小さく嬌声が挙がった」
  • 「紫色の朝焼けに滲んだ庭」
  • 「黒い帳の向こうから、なにか怖いものに見つめられているような感覚」
  • 「祭りの余韻にあてられて、ぼんやりとした頭を必死に巡らせるが、納得のいく答えはでてこない」
  • 「日々に追われる東京での暮らしの疲れが、湖水のように静かな時間に溶け落ちていくような-そんな心地のよい安らぎがあった。」
  • 「セピア色の記憶の宝石は、気づかなかっただけでまだまだこの土地に埋もれていた」
  • 「お月様きれいだね。 言葉のまま月を探す」
  • 「紫子は相変わらず歩くのが速い。その速さは春風みたいに闊達で、気分がいい。」
  • 「冬は切り離された異界が音もなくすぐ傍に帰ってくるときなのだろうか」
  • 「長い呼び出しの後で不意につながった受話器ごしの声は‥」

  • 「そばに居なければ縁というものは自然と遠のくのだ、と学校の先生に聞かされたことがある」
  • 「一人の人間を戸籍から抹消する場合、死亡以外には失踪宣告という法律の手続きがある。それをしないと、その人間は生きていることになり、相続や税金の問題が解決しないからだ。普通の失踪の場合は、八年経たたないと失踪宣告をすることができない。この場合-危難失踪なら一年でそれが行われることになる」

  • 老獪:経験を積んでいて、非常にわるがしこい・こと(さま)
  • 矜持:自信と誇り。自信や誇りを持って、堂々と振る舞うこと。きんじ。プライド。「犬みたい、という言葉が矜持に引っかかったが‥」
  • 泰然自若:少しも物事に動じないさま。「一人泰然自若としている」
  • 鬼の霍乱(かくらん):〔「霍乱」は暑気あたりの意〕いつも非常に健康な人が、珍しく病気にかかることのたとえ。
  • 荼毘に付す: 〔梵 jhpeta〕火葬のこと。
  • 霞を食う:〔仙人は霞を食って生きると信じられたことから〕俗世間を超越して生きる。

20070526

[本]東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』

途中


なにやら、オタクとポストモダンなんちゃら。ポストモダンにおいて物語的な想像力がどのように展開していくかのパースペクティブ、みたいな。


序章/議論の導入
・「ポストモダンの進展とオタクの出現は、時期的にも特徴的にも関係している。」16
・ポストモダン=「大きな物語」の衰退
・「十八世紀の末から一九七〇年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統の共有で確保されていた。ひとことで言えば、きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。」17
・「ポストモダン論の提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有すべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである。」19
・「しかし、一九七〇年代以降の「ポストモダン」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる、別の感性が支配的となる。そして、日本でも一九九〇年代の後半からその流れが明確となった。」18
・「ポストモダンにおいても近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダンの相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。」19
・「ポストモダンにおいては、すべての「大きな」物語は、ほかの多様な物語のひとつとして、すなわち「小さな物語」として流通することが許されている(それを許せないのがいわゆる原理主義である。)ポストモダン論は、このような状況を「大きな物語の衰退」と呼んでいる。」20
・「現在の日本では、オタクたちの作品や市場が、そのようなポストモダンの性格をもっとも克明に反映し、表現や消費のかたちをもっとも根底的に変えている。」17
・「したがって筆者は、二〇〇〇年代の物語的想像力の行方について考えるために、まずは、その物語の衰退にもっとも近くで接しているはずの、オタクたちの表現に注目するべきだと考える。これが本書の出発点である。」17


筆者によるライトノベル考察
・「キャラクターのデータベースを環境として書かれる小説」45
・キャラクターのデータベース=キャラクターの自律化と共有財化。作品と作品のあいだに広がる想像力の環境。
・キャラクターの自律化=「キャラクターの性質がドラマ(の可能性の束)に優先していく」41、「物語ではなく、キャラクターのほうが基礎的な単位として感覚される」42
・「ライトノベルの作家と読者は戦後日本のマンガやアニメが育て上げてきた想像力の環境を前提としているために、特定のキャラクターの外見的な特徴がどのような性格や行動様式に結びあわされるのか、かなり具体的な知識を共有している。」45、「描写とキャラクターのデータベースのあいだで仮想的な対話を行い、その結果そのものを文章のなかに組み入れて描写」、語り手と読み手のあいだの一種の共犯関係
・ライトノベルのキャラクター 「個々の物語を超えたデータベースの中に存在している。少なくともそう想像されている。」「さまざまな物語や状況のなかで外面化する潜在的な行動様式の束」
・ゆえにどのジャンルにも登場できる。
・製作において、作品(物語)の層と環境(データベース)の層が別々に存在する環境におかれている。


ライトノベルとポストモダンの関係
・「オタクたちが作り上げたキャラクターのデータベースは、まさに、決定的なひとつの物語を成立させないにもかかわらず(キャラクターが物語を逸脱してしまうと言う意味で)、複数の異本としての物語をつぎつぎと成立させてしまう(ひとりのキャラクターから複数の物語が生成すると言う意味で)という点で、ポストモダンの物語製作の上限を体現する存在だと言える。」50
・「筆者はポストモダンでは「大きな物語」が衰えるため、小さな物語はむしろ増殖し氾濫するように見えると指摘した。」50
・「 「ライトノベルはポストモダン的な小説である」という本書の主張は、必ずしも作家がその位置を自覚していることを意味しない。作家のひとりひとりは締め切りに追われながら、より売れる小説、より人気の出る小説を作ろうと努力しているだけかもしれない。しかし、その素朴さゆえに、ライトノベルの想像力はオタクたちの動物的な消費原理を、すなわちポストモダンの時代精神をみごとに反映してしまう。」50
・「ライトノベルのポストモダン的な性格を、小説内容そのものにではなく、小説と小説のあいだの環境に見ている(略)。」53

・「いわゆる「ポストモダン文学」は、小説の内部でいくら前衛的な実験を行っていたとしても、現実には保守的な文学作品として流通している。彼らの小説は文芸誌に掲載され、文学賞を受賞し、大学で教材として取り上げられる。その環境はポストモダンの条件からほど遠い。」
・「ライトノベルは、かりにその小説の内容こそ類型的な凡庸なものだったとしても(略)その制作や流通の過程は近代文学のそれから大きく離れている。」53


「まんが・アニメ的リアリズム」なるもの
・大塚英志がライトノベルを論じるに当たり導入した概念
・ライトノベル以外の小説はすべて現実を「写生」するものであると捉え、一方でライトノベルは「アニメやコミックという世界の中に存在する虚構を「写生」する」ものと捉える。
・虚構の写生
・自然主義的リアリズム-描写の起点としての「私」を必要とする創作手法
 まんが・アニメ的リアリズム-「私」や生身の身体を持つ人間ではなく架空のキャラクター 58

コミュニケーションとしてのリアリズム
・公共性-「人間と人間が、共同体的な限界を超えて出会う場所」
・近代社会もポストモダンの社会も、村落共同体を超えて成立する巨大な組織なのだから、必然的にそのような場所を必要とする。」
・稲葉振一郎氏によれば近代文学の自然的リアリズムも、ポストモダンのまんが・アニメ的リアリズムも、まさにその場所を作り出す装置として解釈できる、と筆者は言う。
・「表現はそのまま現実を向かいあうわけではない。いかなる表現も、市場で流通するかぎり、発信者と受信者のコミュニケーションを抜きにしては成立しない。」62
・「自然主義文学の作家は、現実を描くべきだと感じたからでなく、現実を描くとコミュニケーションの効率がよいので、現実を写生していた。同じようにキャラクター小説の作家は、キャラクターを描くべきだと感じているからではなく、キャラクターを描くとコミュニケーションの効率がよいので、キャラクターを参照している。」62
・「架空世界のガジェットからなる「データベース」は、今日の文芸の世界において、ある意味ではほとんど「現実世界」の代替物と言いうるほどのところにまで発達してきてしまっているのです。」62
・大塚はコミュニケーションの効率性の基盤それぞれを「リアル」と呼んだと理解すればいい。63

・公共性を得るまでに発達したキャラクターの「データーベース」。それは戦後のアニメ・マンガの想像力が育て上げてきた。

20070525

[表現]田中ロミオ『人類は衰退しました』

途中

・「でも、藪をつついて蛇を出す愚は避け、そそくさと自室に引き下がることにしました。幸運の原因を突き止めようとして幸を逃すことはないのです。」66
・「それは確かに楽で知的な仕事を望んではおりました。しかし無意味な仕事がしたかったのかと問われれば答えはまったくもってNOであり、要するにわたしは効率よく人生の充実が欲しかったのです。」53
・「さっさと知の高速道路にのって一人前になりたいのです。」51
・「そういった手管ですか。なんどか学者生活でくらいましたけど。」

20070521

[web]個性にしか回収されない車いす

「車いすは個性だ」

都合のいい言葉。
誰に向けて発せられた言葉なのか。
しかし、この表現で妥協しておくしかないのかもしれない。
問題は複雑。
個性に回収して思考停止。
それが楽でいいのかも。

発する立場によって温度が異なる言葉。温度差。
しかし、その温度差をはじめから前提とし、許容しているようにみえる言葉。
それは、この温度差を埋めるために必要な前段階としての自己(他者)認識の発現なのか。
それとも、マイノリティのナルシズム。
マジョリティが聞いても安心できる言葉。
お互いいい気持ちでいるための便利な言葉。

何かを棚上げにしている気がするが、さしあたり皆がこの言葉を聞いて、快く思っているのなら、価値のある言葉といえなくもない。

[web]“ハッカー大国”露政府、IT国エストニアにサイバー攻撃か

概要
「ロシアとの関係が悪化している旧ソ連バルト三国の一つ、エストニアの政府機関や銀行のコンピューター・ネットワークが、約3週間にわたってロシアからの猛烈なサイバー攻撃を受けている。エストニアは、一部の発信元がクレムリンやロシア政府のコンピューターであると主張し、北大西洋条約機構(NATO)も調査に乗り出した。ロシアは国としての関与を否定しているものの、今回の事態は改めて“サイバー戦争”の脅威を想起させている。(タリン 遠藤良介)」

波紋
「しかも、政府の専門家が調査したところ、初期の攻撃ではクレムリンやロシア政府のIPアドレスが使われていたことが判明。アビクソ国防相は14日の欧州連合(EU)国防相会議に際して「現在のNATOはサイバー攻撃を軍事行動とはみなしていないが、この問題は近く解決されるべきだ」と述べ、NATOが加盟国へのサイバー攻撃をも集団的自衛権発動の対象に含めるべきだとの考えを示した。」

ロシアの対応
「クレムリンの報道官は再三にわたってロシアの関与を否定し、ハッカーがクレムリンや公的機関のコンピューターを装って攻撃を仕掛けている可能性を指摘した。」