20071202

[表現]sinsan hukuoka

  • 「何なんだこれ!」と怒ったようにつぶやいたりしていて
  • 満月と寒さとしめきりが重なり、情緒不安定な三連休を迎えまし

歴史の澱
  比喩的な表現。googleで検索してもなぜかこの語に関する直接的な説明はすぐに見当たらない。
  使われ方としては、
  1. 現代におけるある場所、ものに対して「歴史的な雰囲気を感じさせる」という意味の単なる比喩表現。ただの「歴史」と同義の場合が多い。
  2. 歴史の底に澱として沈んでしまった歴史。忘れられてしまった歴史、顧みられない歴史・過去のことなどネガティブな意味合いで使われることが多い。
  3. 普段は忘れられ、顧みられなくなっているが、それ以降の歴史に何らかの影響を及ぼしていると見受けられる歴史。

20071031

[メモ]語彙 夏恋

『夏恋』より

  • 血沸き肉踊る夏休み‥
  • 鈴を転がすような美しい声
  • そよ風がそのまま歩いているかのようなゆったりとした足取りの巫女は‥

慣用句

刎頚(ふんけい)の友・刎頚の交わり

たとえ首を刎(はね)られても、悔いのないほど深い交わりのこと
 参考:http://www.mizz.jp/word/word_13.html


沽券(こけん)に関わる・沽券が下がる

面目・プライドに差し障りがあること
 参考:http://gogen-allguide.com/ko/koken.html

20071028

[メモ]昆虫薀蓄 ゴキブリ

ゴキブリは人の区別ができるのかということについて

「12頭のマダガスカルオオゴキブリを研究者が取り扱っていた結果、10頭が慣れて、「シュー」という威嚇音を出さなくなった。この10頭を別の人が扱うとそのうち4頭は威嚇音を出した。10頭を再び初めの研究者が扱ったところ、威嚇音を出す個体はいなかった。」

という論旨の論文があるとの紹介の記事を見つけた。上はその紹介記事の引用。

引用:とある昆虫研究者のメモ ゴキブリ:ヒトの区別ができる?

20070619

[メモ]気になる単語

たまに文章に登場し、何となくイメージは掴めるけど確かな意味はわからない、そんな単語たちのための調べ学習。

カタコンベ
  • 地下の墓所のこと。もともとはローマの特定の埋葬場所のことを意味していたが死者を葬る為に使われた洞窟、岩屋や地下の洞穴のこと全般を指すようになった。ローマ帝国による迫害を逃れた初期のキリスト教徒は、ここで信仰を守りつづけた。
サンクチュアリ
  • 聖域・聖所の意。中世ヨーロッパで、法律の力の及ばなかった寺院・教会など。敵の攻撃を受けない安全地帯。また、ゲリラの安全な隠れ場所。鳥獣の保護区・禁猟区。
五体投地
  • チベット仏教における巡礼のスタイル。五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ出すようにして少しずつ前に進んでいく動作。参考までに:「五体投地のやり方」
アガスティアの葉
  • アガスティアの葉は南インドに伝わる葉で、その昔、聖者アガスティアがこの世の人々の未来を予言し、それをpalmyra(パルメーラ)の葉に書き取ったものといわれる。 一人一人の葉は指紋で識別できるようになっており、葉にはその人の一生について細かく書かれているとのこと。聖者アガスティアは葉を見に来る人の数も予言し、その人数分だけ葉が保管されているとも伝えられる。
アカシックレコード
  • アカシックレコード (Akashic Records) は、宇宙や人類の過去から未来までの歴史全てが、データバンク的に記されているという一種の記録をさす概念。神智学(あるいは人智学)やリーディングの伝統などでは精神的に目覚めた人は、この記録から、意のままに過去や未来の情報を引き出すことができるようになり、そして自己の人生の意義や存在の理由がわかるとされる。多くの預言者や神秘家がこれにアクセスし、予言として世に伝えてきたとしている。

20070615

[表現]バルザック『ゴリオ爺さん』

フランス人作家。現代リアリズム小説の祖と言われる。

表現
  • 「服装はそんなだったが、彼らはほとんどみな、骨組みのがっしりした身体、人生の風雪に耐えてきた体格、冷たくて、かたくなで、通用しなくなった古い貨幣の表面みたいに特徴のない顔を見せていた。」20
  • 「真っ先に社会から利益をしぼりとる人間となるために、あらかじめその学業を社会の未来の動きにに適応させて、すばらしい出世を準備しているといった青年たちのひとりだった。」18
  • 「いったいどんな酸が、この女から女性的な容姿を腐食し去ったのか?」20
  • 「習慣的な愁い顔、もじもじした表情、貧しくひ弱そうな様子」23
  • 「ウージェーヌは男爵夫人の手をとり、ふたりとも、ときどき強く握っては音楽が与える感覚を伝えあいながら、手と手で話した。」261
  • 「父があたしの心臓を作ってくれたけど、それを脈打たせてくださったのはあなたですもの。」431
  • 「女の感情を見抜ける人間にとっては、この瞬間は甘美な喜びに満ちたものである。自分の意見を出し惜しみして相手をじらし、思わせぶりして自分の喜びを隠し、相手に不安を起こさせてそこに愛の告白を探り、ちょっと微笑するだけで解消してやれる相手の心配ぶりを楽しむといったことを、しばしばやってみなかった人間がそもそもいるだろうか?」265
  • 「女のすべての感情を流露させるあの慈愛の行為をできたのが嬉しく、それにその行為が、罪の感情なしに、青年の心臓が自分の胸の上で動悸のを感じさせてくれたので、ヴィクトリーヌの表情にはどこか母性的な保護者といった様子が漂い、それが彼女の顔を誇らしげに見せていた。」324

ボーセアン夫人の科白
  • 「じゃあ申し上げるわ、ラスティニャックさん、世間というものを、その値打ちどおりに扱うことですよ。出世なさりたいとおっしゃるなら、わたしがお助けします。女の堕落がどんなに底深いものか、男のみじめな虚栄心がどんなに幅広いものか、いずれあなたもおわかりになりますよ。わたしはこの世間と言う書物をよく読んだつもりでいましたが、それでもまだ、わたしの知らないページがありました。いまはわたしには何もかもわかりました。あなたは冷静に計算なされるほど、出世なさるのですよ。容赦なく打撃を与えなさい、そうすればひとに恐れられます。男も女も、宿駅ごとに乗りつぶして捨ててゆく乗り継ぎ馬としてしか、受け入れてはいけませんの。そうすることによって、あなたは望みの絶頂に達することができるでしょう。はっきり申し上げるけど、あなたに関心をいだく女性がいないかぎり、ここではあなたは物の数にもはいらないのです。若くて、お金持ちで、上品な、そういう女性があなたに必要なのです。でもあなたがほんとうの愛情を感じたりしたら、それを宝物のように隠しておかなければなりません。けっしてそれを感ずかれないようにすることです、そうでないと、あなたは破滅です。そのときはもう、あなたは死刑執行人ではなくて、犠牲者になってしまうのですからね。まかり間違って恋をしても、あなたの秘密をしっかり守るのです!心を打ち明けようとする相手が、どんな人間かはっきり見定めた上でなければ、その秘密をもらしてはいけませんわ。(略)パリでは、評判がすべてで、権力を手に入れる鍵ですの。女たちがあなたは才気のあるひと、才能のあるひとだと言えば、男たちも、あなたがその評判と逆のことをしないかぎりそれを鵜呑みにするものなのよ。そうすればあなたは、どんなことでも望みどおりにでき、どこへでも出入りできるのです。そうすればあなたにも、世間というものがどういうものか、つまりお人よしとぺてん師の集まりだということがわかるでしょう。どちらの側についてもいけません。わたしの名前を、世間というこの迷路へはいってゆくためのアリアドネの糸として貸してさしあげます。この名前を辱めないでくださいね」139
ヴォートランの科白
  • 「(略)なんならためしてみるがいい。このサラダ菜の根っこと引き換えに、首を賭けたっていいが、君のお気に召した最初の女の家で、たとえそれがどんなに金持ちで美人で若い女であっても、君は雀蜂の巣みたいな混乱にぶつかることを請け合うね。どの女もみんな、法律の首枷をはめられ、何かにつけて亭主と交戦状態にあるんだ。恋人のため、着るもののため、子供のため、家庭のためや虚栄のため、といってもめったに美しい心根からじゃあないことは、保証していいが、どんな醜い駆引きがなされているか説明しなきゃならんとしたら、果てしがないだろうよ。だから正直者ってのは、共同の敵なのさ。しかし、正直者ってのはどんな人間だと思うかね?パリでは、正直者とは黙りこんで、仲間入りするのを断る人間のことさ。なにも、いたるところでつまらん仕事をして、その労働が絶対報いられることのない、神の古靴信者団とおれの呼んでいるあの哀れな賤民どものことを言っているんじゃあない。たしかに、連中の間には美徳があって、その愚鈍さのかぎりを花咲かせているが、しかしまた悲惨がある。もしも神が最後の審判の日に欠席するなんていう、たちの悪いいたずらでもしたら、あのひとのいい連中がどんな泣きっ面をするか、目に見えるような気がするな。というわけで、君がたちまちのうちに出世しようと思うのなら、すでに金持ちであるか、あるいはそう見えなくちゃならんのさ。金持ちになろうと思ったら、この土地じゃあ、思い切った芝居を打つことだ。そうでもしないと、けちけち暮らして、はいご苦労様さ!君が選ぶことのできる百の職業のうちで、十人ぐらいはさっさと成功するのがいる、世間はそういう連中を泥棒と呼ぶ。そこから結論を引き出したまえ。ありのままの人生とはそんなものなんだ。こいつは台所以上にきれいなものじゃなく、同じくらいひどい匂いがする。そしてご馳走を作ろうと思ったら手を汚さなくちゃならん。ただ、あとでそのよごれをきれいに落とすすべを知ることさ。それが、いまのご時世の道徳のすべてなんだ。おれが世間のことをこんなふうに話すのも、世間がその権利をおれに与えた、つまりおれは世間を知っているからなんだ。おれが非難していると思うかね。どういたしまして。世間てのはいつもこうだった。道学者連がなんといったって、変わりっこない。人間は不完全なんだよ。人間は多かれ少なかれ、偽善者になることがあるが、そうすると頓馬な連中は、やれ真面目だ、不真面目だなどとぬかす。おれはなにも、貧乏人のために金持ちをやっつけているわけでもないのさ。人間てのは、上だって下だって、真ん中だって、いつもおんなじなんだ。この高等家畜の群れには、百万人に十人ぐらいの割で、あらゆるものの上、法律の上にさえ立つ図太いやつがいる。おれもその仲間さ。君は、もし優秀な人間だと思ったら、頭を上げてまっすぐ進みたまえ。しかし、羨望とか中傷とか愚鈍さとかと戦わなくちゃなるまいな、すべての人間と。(略)」187
ラスティニャックの科白
  • 彼の目には世間というものが、いったん足を突っこむとずるずる首までもぐってしまう、泥の海のように映るのだった。「そこで行われるのはしみったれた犯罪ばかりだ!」と、かれはつぶやいた。「ヴォートランのほうがずっと偉い。彼は《服従》と《闘争》と《反抗》という、社会を表現する三つの大きな要素を見きわめていた。つまり《家族》と《世間》と《ヴォートラン》だ」 それでいて彼は、態度を決めかねていた。《服従》は退屈であり、《反抗》は不可能で、《闘争》はあやふやなのだ。彼の思念は、ひとりでに彼を家族のもとへと連れ戻した。彼はあの静かな生活の清らかな感動を思い出し、自分をいつくしんでくれた人びととの間ですごした日々を回想した。家庭というものの自然の掟を忠実に守って、そのなつかしい人びとは、そこに充実した、間断のない、そして何の苦悩もない幸福を見出しているのだ。そんな殊勝な考えにもかかわらず、彼はデルフィーヌの前に出て清らかな魂の信条を告白し、《愛》の名において《美徳》を命令するためだけの勇気が、どうしてももてなかった。始まったばかりの彼の教育が、すでに実を結んでいたのである。彼はすでに利己的に恋していた。生来の俊敏さのおかげで、彼はデルフィーヌの心の性質を見抜いていた。舞踏会へ行くためなら父親の死体でも踏みにじりかねない女だと、予感していたのであり、それでいて彼には、説教師の役割を演じる気力も、夫人の機嫌をそこねる勇気も、彼女を捨てるだけの道徳感もなかった。」446
  • 「美しい魂を持っていると、この世間に長くとどまっていることができないんだ。実際、どうして偉大な感情が、みみっちくて、しみったれていて、浅薄な社会などとおりあってゆけるだろうか。」464

語句の意味

かもじ
  • かもじとは、もともと結髪に使う「添え毛・入れ毛・足し毛」のこと。髢。
象嵌
  • 象は「かたどる」、嵌は「はめる」と言う意味がある。象嵌は、一つの素材に異質の素材を嵌め込むと言う意味。

  • 戸・窓・障子などの周囲の枠
矍鑠(かくしゃく)
  • 「矍」とは「おどろく・いさむ」姿の意味、「鑠」とは「さかん」と言う意味。2つを合わせて、「年をとっても元気なさま」という意味で年老いた人に対して使われる。

20070612

[本]ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』

ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』岩波文庫

あらすじを少々

主な登場人物は4人の孤児。ポール、エリザベート、ジェラール、アガート。
ポールは同じ学校の悪ガキダルジュロスを崇拝。しかし、学校をリタイアしてからその感情はダルジュロスの写真に移り、アガートたちと住むようになってからは彼女の中にダルジュロスの面影を見つけ、最終的に彼女に対して愛情を抱くようになる。エリザベートの弟。
ジェラールはポールの同級生。ポールがダルジュロスに対して抱いている感情を、ポールに対して抱く。目覚めつつ夢を見るという不思議な恍惚状態をポールから学び、その不思議な感性をポールそのものとして、その魅力を感じている。どういう流れか不明だが、少女から娘と成長したエリザベートに愛情を抱くようになる。しかし長年の付き合いの中で、彼女に愛情を与えることは彼女から愛情を奪う、という矛盾に思える繊細な洞察をし、彼女を自分の中で聖処女として位置づけただ偶像的に理解するようになった。
アガートはエリザベートの同僚。「マネキン」と呼ばれるファッションモデルの仕事を行う。いつからかポール、エリザベート姉弟と住むようになる。ポールに愛情を抱くが、エリザベートの策略によって、ポールへの気持ちを無理やり断ち切られ、最終的にジェラールと婚姻する。
エリザベート。弟に対して倒錯した愛情を抱いている。その愛情をどう評価するか、というのがこの小説の主な主題一つと考えられる。

ダルジュロス。ポール、ジェラールの同級生。意識的に無意識的にポールに影響を与える。現実というポールの狭い世界の中で、彼に対して唯一強烈に際立っていた存在。その容姿や立ち振る舞いの中に何らかの魅力を感じていた。登場場面はほとんどないが、重要人物。


単語の意味

中風
  • 脳卒中。脳出血によって、半身または腕・足など身体の一部がマヒして感覚がなくなり、自由が効かなくなる病。
軒蛇腹
  • 軒近くに設けた蛇腹。
  • 軒(のき):屋根の下端で、建物の外壁から張り出した部分。風雨や日光をよける。
ためつすがめつ(矯めつ 眇めつ)
  • 〔動詞「たむ」「すがむ」の連用形に完了の助動詞「つ」が付いたもの〕いろいろな方からよく見るさま。とみこうみ。「―して見る」

20070611

[メモ]ハシシ・コーク

ハシシ、コーク。村上龍『イビサ』に頻繁に登場する薬物。主人公のマチコやその友人ラフォンスがよく使用していた。どういう薬物か調べ学習。


ハシシ

・大麻樹脂。大麻草の分泌する樹脂を集めて成型したもの。「チョコ」と称されることもある。
  • cf.大麻:「我が国では麻(アサ)として知られてきた。この麻は、テトラハイドロカンナビノール(THC)という物質(薬物)を含んでおり、THCには催幻覚作用がある。乱用される大麻は、その形状によって、だいたい3つに分けられる。1)大麻草を乾燥させたもの。2)大麻草の分泌する樹脂を集めて成型したもの(大麻樹脂)。3)溶媒を用いて成分を抽出したうえ、オイル状にしたもの。」

ハシシ周辺の薀蓄
  • THCは油やアルコールに溶ける。
  • THC は脳内の海馬・小脳・延髄腹内側部などに影響。
  • 致死量は、カンナビノイドの含有量が品種によって違うため断定出来ないが、過剰摂取による死亡例の報告は無く、急性中毒による死亡はまずないと言われている。
  • 日本では大麻の所持や栽培は大麻取締り法で規制。国の許可がないと所持・栽培はできないことになっている。
  • 栃木で栃木白という品種が栽培されているが、これは麻布とするためである。品種改良によりTHCはほとんど含んでいないとされる。なお県外持ち出しは禁止されている。

コーク

・Coke。コカイン(Cocaine)の略称
  • 南米に生育する「コカ」という木の葉から抽出される物質で、通常はふわふわした感じの白色粉末
  • 粘膜の麻酔に効力があり、局所麻酔薬として用いられる。この作用は、ナトリウムイオンチャネルの興奮を抑えることで、感覚神経の興奮を抑制することによる。また中枢神経に作用して、精神を高揚させる働きを持つ。
  • コカインによる依存症は極めて強い部類に含まれるが、主に精神依存であり、肉体依存は弱いと言われる。
  • コカインの中枢作用は覚醒剤(アンフェタミン類)と類似。コカインは作用が強烈で短時間作用し、覚醒剤は作用はコカインより弱いが長時間作用。
  • 麻薬及び向精神薬取締法で規制対象
  • もっとも特徴的な中毒症状には、皮膚と筋肉の間に虫がはいまわるような感覚が起こる皮膚寄生虫妄想というものがある。
  • ある人には安全な量が別の人には致死量であり得る。

20070608

[表現]辛酸なめ子『自立日記』

辛酸なめ子『自立日記』文春文庫PLUS

教養を無駄遣いしている感が文章に表れていて面白い。サブカル好きにはもちろん、普通の人にも面白く感じてもらえる路線。離人的な文体で日々の雑感を綴る。「毒を吐く様が面白い」と評価されているようだが、面白いのは毒そのものではなくて彼女の「想像力」といったところ。彼女の使うボキャブラリーや比喩などからそのことが窺える。ボキャブラリーや独特の比喩を駆使できているため、辛酸なめ子の文章は面白く感じる。香山リカの『多重化するリアル』ではないが、離人感覚を笑いにうまく転化している、という印象を受ける。



P161
[内臓日記]
「腸が激しく蠕動している。今日は腸の調子がいい!テルペン化合物のおかげか?チャンス到来とばかりに括約筋をゆるめ、#8B4513色をした固体を外界へと押し出した。すると同時に、胃液の漏出も活発になり、急激に空っぽの空間に物を欲し始めた。
    (略)
 賑やかな消化器官とは対照的に、子宮には穏やかな時間が流れている。
 ここ最近、子宮には特に大きな仕事がない。凪の時期はいつまでつづくのだろうか?これを不満に思ってか、たまに自分の存在を知らしめるかのように二本の腕のごとき卵管を震わせ、絞り上げるような痛みを発生させる。」

P42
「途中、おじさんが船頭のおじいさんに向かって、「舟を漕いでいる竹竿が折れたら、どうするんですか?」という素朴な質問を投げかけた。船頭は、「その場合、自分のサオで漕ぐから大丈夫です」と即答した。おばさんたちは「あ~らぁ、ウフフフフ」と嬌声と笑いが入り交じった反応を示した。わたしも一緒に笑いたかったけれど、この場合未婚の娘として求められるとおり、困ったような笑いを浮かべ、顔を赤らめてうつむくことにした。または、首をかしげて「サオって何のことですか?」と聞いてみても良かったかもしれない。」

P44
「ケーブルカーで登る途中、線路脇の草刈りをしている年配の男性が、その女乗務員と目が合った時、ニヤッと笑いかけた。その笑いは「お前の体を知っている」または「昨晩は最高だったよ」と語っているようで、のどかな遊園地に似つかわしくない淫靡なものを感じた。」

P49
「仕事中も構わず蟻がどんどん脚に登って来るので、全然仕事にならない。蟻を手で払いのけたら手にじかに「アリ」という感覚が伝わり、脳天まで突き抜けて行った。ヘレン・ケラーがサリバン先生と水に手を触れて、「Water!」とひらめいた時のような衝撃だった。アリをさわって「アリ」という感覚がするのは言霊の力なのだろうか。」

P70
「(エレベーターの)「開」ボタンを押して、営業マンの笑いがはがれ落ちる瞬間を見たい衝動にかられた。しかし、そんなことをしたら、自分が傷つくだけだと思い直してやめた。」

P71
「なんでもあなたについて話してごらんなさい」とサムは言いました。なので、嫌々ながら年齢や職業や住んでいるところについて話しました。不思議なのは、わたしが何か英語で言うたびに、サムは「Great!」「Exellent!」と、かすれた声で賞賛の言葉を投げかけてくれるのです。まるでここは英会話教室ではなく、一種の風俗のようです。何の目的もなく他国の言葉を学ぶのは、その国の文化を侵犯し、レイプするようなものなのかもしれません。これは、お金で買った言葉によるプレイという感じがしてきました。そう思うと授業料も決して高くありません。」

P74
「わたしがイラストなどを書いていると言うと、「じぁあ、世界で活躍できるといいですよね、ジミー大西みたいに!」などと言うのです。ジミー大西という名前は、もしかしてわたしのどこかに彼を連想させるものがあって出て来たのかと思うと、ちょっと女として暗い気分になりました。」

P87
「従業員は全員ボーダーの服を着ていました。フランス文化にとらわれた囚人であることを象徴しているようです。」

P98
「その原因は、ゴツゴツしたガーリックの破片だった。塩辛くて酸っぱい、そしてニンニク臭い!という、今までにない組み合わせ。たとえるなら、男子校に入学したばかりの痩せた美少年に目をつけた、ラグビー部のガッチリした男臭い上級生が、放課後、新入生を呼び出して何の前触れもなしに、突然唇を奪ったような衝撃。酸っぱい男の汗、汗以外の液体、精と青、そんなものをすべて包んだようなヨーグルトだった。最初はただびっくりさせて、それがだんだん病みつきになるような危険な魔力を秘めている。題して「おれの味を忘れられなくしてやるぜ」。」

P165
「代々木上原のペットショップで、かわいい犬が売られていた。かわいさと媚を全身で表現し、娼婦のように「買って」光線を発していた。」

[メモ]偽装結婚

偽装結婚の主な目的
  1. 姓を変更することによって、債務者リストから逃れるため。リストから逃れると新規借り入れが可能に。
  2. 性的マイノリティであることのカモフラージュ。ゲイとレズの友情婚など。
  3. 在留資格の不正取得

少々、3の不法滞在目的の偽装結婚についてメモ
  • 日本にいる外国人にとってビザは大問題。配偶者ビザを持っていると働くことができるので、日本で働きたい外国人は日本人との結婚を狙う。
  • ビザ取得のため、金を払って日本人と偽装結婚。お金の欲しい病人や遊び人の日本人が対象。日本でオーバーステイで強制退去さ せられても、身分証明書中の生年月日や番号を変えて(例えば中国では30万円程度の賄賂でこれが可能)偽装結婚で配偶者ビザを取得。
  • 日本人と結婚すれば来日しやすい上に長期滞在(3年)が可能。永住権も取得できるという法律を利用したもの。婚姻届を出したからといって同居しなくてもいいし、あとは一定期間が過ぎたら離婚すればいい。もちろん、戸籍には結婚と離婚の記録は残る
  • 外国と日本の経済格差、生活程度の格差は、外国人にとって大きな魅力。彼らは心を殺し、金のために日本人に近づき、婚姻届出をするまで、あるいは、配偶者ビザを取得するまでは、外国人配偶者は、我慢に我慢を重ねる。日本人配偶者は、婚姻届出をした後、あるいは、ビザ取得後、相手の態度が豹変したことに驚く場合がある。 あるいは、外国人自身が我慢できずに家を出て、愛人のもとに走る例もある。 我慢を通している場合、本人は、意図的に日本人配偶者に嘘を言ってごまかして何年も経過するので。それを後で発見した日本人配偶者は、驚き、愛情 と信じていたことが後で実は愛情ではないことを知る。信じていた人に裏切られていたことを知る。我慢し通した外国人もそうなると、態度を急変 。

20070607

[Web]タネの話 はみだしもの

大人の科学.net 連載 タネの話 第12回 

シーズンでない時期に芽吹いた固体、花をつけた固体が同時に映っている写真を参照して
  • 「両親と同じではない程度が大きいと、変わりモノ、はみだしモノと言われるのですが、そのはみだしモノこそが、これまで両親が住めなかった所で生活できたり、これまでとはちがう季節に花を咲かせたり、進化のパイオニアになっているのですから、はみだしモノ、バンザイです。」

20070606

[Web]webちくま 鷲田清一「可逆的?」 13 〈死〉の人称

webちくま 鷲田清一「可逆的?」

13 〈死〉の人称

一人称の死の物理的経験不可能性
  • 経験は死とともに不可能になるからだ。いいかえると、死はいつも経験の彼方にある。死は現在(presence)になりえない。死はいつも不在(absence)として迫ってくるものである。
  • これに対して、他人の死はまぎれもない経験として生じる。だれかに死なれるという経験として。無関係なひとの死はひとつの情報として経験されるにすぎない であろうが、深い関係にあるひとの死は、「失う」という経験、(他者の、ひいては自己の)喪失の経験としてまぎれもないひとつの出来事となる。
一人称の構造
  • ひとはだれかに呼びかけられることによってはじめて、他者の意識の対象としてはじめて自己の存在を〈わたし〉として感じることができる。生涯だれにも呼びか けられることがなかったひとなど、想像しようがない。「だれもわたしに話しかけてくれない」と嘆きつつみずからいのちを絶つひとはあっても。
  • 〈わたし〉の存在には「わたし/あなた」という自他の人称的な関係が先行している

二人称的死-一人称的死-非人称的死
  • 〈わたし〉は「他者の他者」としてあるとするならば、わたしをその思いの宛先としていた二人称の他者の死は、わたしのなかにある空白をつくりだす。死というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならないからである。
  • 「死ぬ」ではなく「死なれる」ことが〈死〉の経験の原型だと言うときには、わたしの身に起こること、つまりはわたしの死は、二人称である他者の喪失を想像 的に自己に折り返したところに成り立つということが含意されている。
  • いいかえると、「自己の死」には、「他者の不在」という概念を自己のなかに反照させた 擬似二人称的な死であるということが含意されている。それは、わたしにとっての〈わたし〉の死ということなのである。
  • すでにそこに自他の可逆的な人称関係は含意されているわけだから、この〈わたし〉の特異性は存在としてはすでに媒介されたものだということになる。わたし がじぶんの死について語るときには、それはすでに「わたし」と「あなた」の可逆性に媒介された言説のレベルで言われているのであるから、そのときにはも う、「わたしの死」の単独性や特異性は概念として成り立っているにすぎないことになる
  • それは、純然たる一人称を超えるものを含んでしまっ ている。この意味で、「わたしの死」について語る言説は、「死なれる」という二人称の死から派生したある非人称的な語りなのである。わたしはそういう非人 称的な語りによってしか、自己の〈死〉にふれることができない

締め
  • 〈死〉と〈生〉の関係についてもそのことがおそらくは言えるであろう。〈死〉は、わたしにとって経験の、したがってまた意味の消失であるかぎりで、無意味 なものである。どこまでも不在のものである。その無意味なもの、不在のものについての語りのなかで〈生〉の意味が彫琢される。そのかぎりで、「死は生に意 味を与える無意味である」(V・ジャンケレヴィッチ)、と。


★鷲田氏は「わたしの死」を(非人称的に)語る前に、「わたし/あなた」という可逆的な言葉を習得した時点で、他に大勢いる「わたし」という語の発話主体とは区別される「特異性」や「単独性」をもった一人称的な〈わたし〉、純然たる一人称は成立しなくなるということを前提しているように思える。純然たる一人称とは何だろうか。「わたし」という語に不可逆性を付与したものだろう。他の何ものでもないこの「わたし」。しかし、「わたし」という言葉自体、「あなた」という二人称との可逆性の中からしか生まれることのできない関係的な概念で相対的なものに過ぎないので、そのようなものに、直感的に取ってつけたように「不可逆性」を付与してしまうと、その不可逆的性質をもった「わたし」と言う語は、本来想定されていた「わたし」という語から見ると屈折したものになってしまう。「わたし」という語が可逆的に適用可能である語という説を採用し、その視点から見た場合、不可逆的なわたし-「特異性」や「単独性」を持った純然な一人称的わたし-は奇妙なものとなる。可逆的用法の「わたし」を土台として不可逆的用法にの「わたし」を創出して主張するのは、砂の上に建物を建ててその堅固を主張するくらい、不安定で説得力のないものであると思う。他と代替不可能な「わたし」を語るために、「わたし」という語を使う、それを使って考えるのは語義矛盾であり、別の表現を考えた方が妥当であると思う。

★「特異性」や「単独性」を持った何かがもしあるとしたら、それは「わたし/あなた」関係以前のものだろうか。「わたし/あなた」の可逆的関係が適用可能であることによって「わたし」という語を習得し、わたしという意識が生じる。では、わたしだけのわたし、たる所以はなんだろうか。わたしが意識的にしろ無意識的にしろ巻き込まれている「二人称の関係」の総体なのだろうか。

★一人称の死は純粋に経験不可能。二人称の死は経験可能(三人称の死も可能)。一人称を表す語である「わたし」が成立するためには他者が必要不可欠。他者との接触により「他者の他者」として自己を認識。即ち「わたし/あなた」という語が可逆的な関係にあることの認識。他者がいて、その他者の他者たるわたしがいる。その関係は両者が存在している場合に成り立つ。二人称的他者の死が意味するのは、わたしがその他者となっている他者が死んでしまったということであって、即ち「わたし」を再帰的に構築していた「他者の他者」という関係性が消滅してしまうということである。

[Web]MouRa 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』インタビュー

MouRa
  • あなたの「愉しみたい」「識りたい」をモウラする講談社の〈才能ポータル〉とのこと。講談社のネットコンテンツ。


FRAMES INTERVIEW 06 東浩紀インタビュー
  • 「ところが、いままでは文学史は常に純文学史であり、純文学の外側からどんなひとが「越境」してきたかという、ある意味では傲慢な視線しかもてなかった。僕はその視線を相対化したかったんです。」
  • 「『ゲーム的リアリズムの誕生』は、純文学を中心として文学全体を語る、現在の文芸評論の呪縛を解体するために書かれている。」「むしろ、異なった文学環境に生きる人々が、それぞれの立場を相対化するためのコミュニケーションツールとして書いています。」
  • 「そもそもオタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。きわめて 動物的で快楽主義的であると同時に、妙に実存的で人間的でもあるわけです。それがオタクたちの作品の特徴ですよね。前回はその「動物化」の側面に焦点を当 てたわけですが、今回はその両義的なところから新しい「文学性」を──と言って言いすぎであれば、新しい文学についての語り方を導き出せないかと思って本 を書いたわけです。」
  • 「 そもそも言葉というのは、現実から乖離(かいり)しているにもかかわらず、世界と直結しているような気がしてしまう媒体です。その「カン違い」、つまり自然主義は世界中で生まれている。だから、自然主義文学批判はどこででも成立する。」
  • 「しかし、日本では──この発見は大塚英志の天才的な着想だと思うわけですが――、手塚治虫によってマンガでも世界を描けるというカン違いが起きた。文学の カン違いが、マンガのカン違いに転移したわけです。しかも、ライトノベルは、そのマンガのカン違いが文学に逆輸入されて生まれている。つまり、カン違いが 三重に重なっている。こういうふうにライトノベルのキャラクターには変わった歴史的経緯があるので、記号と現実の関係を考えるうえで、その様態を分析する のはとても面白いと思います。」
  • 「本をちゃんと読んでくれればわかるのですが、僕が「メタ物語」と言っているのは、物語の自己言及性のことではなく、物語の要素であるはずのキャラクターが 物語を横断してしまう特徴のことです。現在では、作品の制作過程で物語の作成と同じくらい、あるいはそれ以上に「キャラを立てる」ことが重視されますよ ね。しかし、キャラクターというのは、それを「立てた」瞬間に、複数の物語が自動的に召喚されるような存在なのです。これを、僕は「メタ物語的」な環境と 呼んでいる。だから、別にメタフィクションじゃなくても、キャラクターが立って、2次創作を生み出せるようなライトノベルは、すべて原理的に「メタ物語 的」な存在なのです。」

[Web]Webちくま連載 加藤典洋「21世紀を生きる生きるために必要な考え方」

webちくま  筑摩書房が展開するネットコンテンツ。ライターは十五人程度。

加藤典洋「21世紀を生きる生きるために必要な考え方」

Q76 子供を叱ることについて
  • 「そこにあるのは、第一に、喫煙は身体によくない、という風潮の中で、でも個人の嗜好でタバコを吸うのはオーケー、という嗜好の強さへの身体の反応(ま、僕 のコトバで言うと私利私欲となりますが)が、弱いということ、また、法律を含め、ルールというのは江戸時代のように、お上が作るのを下々が「守らなければ ならない」というものではなくて、「自分たちが決めて、自分たちが守る」自分たちの約束ごとだというルールの感覚(同じくこれが、公共性の感覚、ですね) が、身体に入っていないという弱さだったと思います。」
  • 「ご質問の方が、子供を叱れない、と感じるのも、こういうことが、どうも自分で確信をもてなくなってきていることの、現れだろうと思います。」「よく頭ごなしに叱るのはよくない、と言いますが、叱ることの中には、「頭ごなしに」叱る、相手に理解できるようにではなく、説得できないままに、叱りつけ る、という側面があります。どうも自分には叱れない、という感じが起こるのは、あることを叱るとして、なぜそれがいけないことなのか、子供にもわかるよう に説明することが自分にはできそうにない、と感じられるからでしょう。」「 というわけで、叱られることを通じて、頭がまだ理解しないことのうちに、大切なことがずいぶんとこの世にはあるらしい、ということを、身体が学ぶ、ということが、子供の身体感覚に入ります。」
Q83
  • 「質問をはっきりとしたくない。尋ねているわけではない。もし回答があったなら、それは回答者が勝手に何か書いているので、自分は知らないヨ、という感じ。そういう感じを与える人を、時々見かけます。コミットすることが負担になるのかもしれません。」

[本]香山リカ『多重化するリアル』

『多重化するリアル』
  • 日本で離人症や多重人格などの解離性障害が増えている。14
  • その原因は通常、「解離性障害の原因になるようなトラウマを持つ人が増えている」と考えられるが、「はっきりしたトラウマがなくても解離が起きることがある」と考える筆者は原因を別に考える。
  • 「①テレビなどの映像メディアやインターネットなどの電子メディアが現実や自己を多層化し、解離を促進する。」「②社会や時代そのものが、人々の解離を要求するシステムになりつつある。」15

解離
  • 「現実感が極端に薄れ、自分と現実、自分とからだ、さらには自分と自分のあいだに"膜”のような断絶ができてしまうという疎外感にとらわれ、同時に「自分とは何か」という自己同一性もほどけてしまいそうな状態、それが離人症といっていいでしょう。」13
  • 「現実感がない。自分が世界や出来事、さらには自分自身にとっても、"傍観者"だとしか思えず、"当事者"だという意識が持てない。」23
  • 「私が私である」「この世界は現実である」という自己認識、世界意識が損なわれる離人症は‥」23
  • 「これだけを読むと、「私が私である」「これが現実である」という人間の精神の根底を支える感覚がすべて崩壊しているようにも思えるが、重要なのは離人症では知的能力や判断力は正常に保たれ、また「そういう自分は何かがおかしい」という違和感は強烈に残っているということだ。」26
  • 「「これが現実だ」というヒリヒリしたリアリティを感じる感覚は鈍麻しているのに、「現実だと感じられないのは異常だ」と感じる感覚はむしろ鋭敏になっているのだ。それに伴う苦痛も大きい。このパラドキシカルな感覚の二重性もまた、離人症者たちの大きな特徴だと言われている。」26
  • 「現実感の喪失」「感覚の疎隔化」40
  • 「私たちが物事を体験する時、その体験はいくつかの側面を含む。それらは過去に起きたことの記憶との照合、その体験を持っている自分のアイデンティティの感覚、その時感じている身体感覚、視覚、聴覚などの感覚的な情報、そして自分の身体の運動をコントロールしているという感覚などである。解離状態では、体験の持つそれらの側面が統合を失い、その一部が意識化されなかったり、失われたりしている(解離している)状態である。82

  • 「自分の存在を確認するため」 離人症的動機を持つ犯罪の増加。リアルな世界への突破口としての犯罪。殺人、バスジャック等
  • アナログ的な古い文化とデジタルな最新技術インターネットの同居。自然に結びついている事実
  • コンピューターのもつ、宗教やオカルトとの近さ、親和性。「理解はできないが人智を超えたもの、畏怖と崇拝の対象になるもの」としてのPCの側面を指摘。①PCはそのネーミングからわかるように「国家が管理するスーパーコンピュータではなく、あくまでも自由な個人のものである」という反体制的なメッセージを持っている。②「全世界を覆いつくす壮大なシステムであるにもかからわず、管理者を置かず監視しやすい。」③バリー・サンダース氏の言葉を引き合いにだす。「私たちは、複雑な機械の内部で何が起こっているのかまったく知らないままに、コンピューターのキーを叩くことになれている。私たちの多くにとってコンピューターは何か超人的なもので、機会のなかの神である。」
  • ネット空間の閉鎖性。負の感情を増幅する閉鎖空間
  • 離人症的な若者の増加
  • 「奥行きやリアリティにこだわる必要はない」という離人症的世界を生きるひとつの処方箋として 村上隆 スーパーフラット
  • 村上の確信犯(自覚)的離人的演出
  • 「実際の離人症の人たちは、今自分がどのキャラクターであるのか、あるいは、ネット世界のどこにだれとして存在するのかと、多層化したたくさんの現実のどこにいるのかを見失い、一瞬前の自分がどこにいたのかも忘れてしまっている。あるのは苦痛だけだ。だからこそ、ネット少年がバスジャック犯に、コミケ青年が誘拐犯にといった「一線の踏み越え」に対しても、彼らは無自覚になるのだろう。」42
  • 離人症的若者のあり方。バスジャック事件を起こした少年がそうであったように、「何とかして現実の世界につながる突破口を見つけたいと願い、ネットで現実でさまざまな思考を繰り返す。」「しかし、彼らが夢想する「現実の世界」も、そこへの突破口を探す試みも、かなりゆがんだ形をしている場合が多い。」45
  • 誤った自己治療:離人状態(の苦痛)から抜け出す手段として(リアリティを得るための手段として)の自傷行為。リスカetc。
  • 山内志朗氏による指摘「リアリティが不足した時代では、感覚的刺激がリアリティの基礎として求められる傾向にある。痛みぐらいにしかリアリティを見出せず、しかもいくら痛みを重ねてもリアリティを得られない悲しい時代が現代かもしれない。」生々しい身体感覚こそが、"幽体離脱"のようにバラバラなった自分をひとつに引き寄せるはずだと言う目論見もたいてい失敗に終わる。強烈な実感は一時的に終わる、旨の指摘。51
  • 誤った自己治療:離人状態(の苦痛)から抜け出す手段として(リアリティを得るための手段として)の「ピュアでやさしい自分」になる。
  • 「これは、過剰な身体性に救いを求める第二の選択とはまったく逆で、”幽体離脱"して離れてしまった自分-つまり、身体性をまったく持たず、社会や世間ともかかわりのない存在としての自分-の方を実体と考え、そちらにリアリティを求めるというあり方である。言ってみれば、極端な"現実離れ"をすることによって離人症的な感覚の苦痛を消そう、ということになるのかもしれない。」60
  • 自分そのものを無制限のやさしさでできた「バーチャルな核」と想定
  • 現実世界で生きている限り、うまくいかない。そこでネットの世界に目が向けられる。
  • 一部のネット参加者によって善意やピュア志向が共有された世界の構築。ドクター・キリコの診断質。
  • 期待や幻想の表れ。理想のコミュニケーション手段としての出会い系サイト。
第三章 心が解離していく
  • 「私たちが物事を体験する時、その体験はいくつかの側面を含む。それらは過去に起きたことの記憶との照合、その体験を持っている自分のアイデ ンティティの感覚、その時感じている身体感覚、視覚、聴覚などの感覚的な情報、そして自分の身体の運動をコントロールしているという感覚などである。解離 状態では、体験の持つそれらの側面が統合を失い、その一部が意識化されなかったり、失われたりしている(解離している)状態である。82
  • 私たちはふだん「自分は、ある程度のまとまりと連続性を持った存在である」というゆるやかな意識をあたりまえのように持ちながら、生きている。」83
  • 「つまり、人間の精神や身体の基本をなす「意識・同一性・記憶・心象・知覚・感覚・運動」などの統合や連続性が失われてしまうのである。そうなると、すぐ想像がつくように「これが自分」「これが現実」という実感もあっという間に失われることになる。」83
  • 近年における多重人格の増加についての見解「現実の症例の増加が先にあり、それが出版物やドラマに影響を与えた、と素直に考えればよいのかもしれない。しかし、その反対のベクトルも考えることができる。つまり、自分の現状に不満や不安を抱き、自己変革願望や変身願望をかねてから潜在的に持っていた人たちが、大量の多重人格の情報にさらされることのよって実際にそうなってしまうのだ。」88 「情報が無意識の領野に働きかけ、発症の起爆剤にあることはありえるだろう。」88
  • トラウマ原因説以外の可能性:人間の心そのものが簡単に解離を起こしやすくなった(仮説)91
  • 「この現実ではこの私、でもあの現実では違う私」という事態が生まれている。
  • 「言い過ぎを承知で口にしてみると、「ひとりの人間ににひとつの自己」という心の統合モデルそのものが、解離モデルにとって代わられようとしているとも言える。」98
  • 「「私がいるこの世界が唯一の現実」という世界認識も大きく変わるはずだ。」
  • 「"私"は無数にあり、それぞれの"私"が居る場所としての"現実"も、また無数にあるのである。」
  • 原因については、今のところはっきりとした可能性を示すことはできない。99
  • 「人間の心そのものがちょっとしたダメージや刺激で、簡単に解離しやすいほど薄くなっているのではないか」
  • 教育やしつけにその原因を安易に帰すのは危険。インターネットや携帯電話の発達という問題には注目すべきである。99
離人感覚のスタンダード
  • 「複雑化・多様化する社会の中で、インターネットなどのバーチャルな空間やメディア空間の肥大という事態にさらされ、「自分が自分であること」「これが現実であること」に生き生きとした実感を感じられなくなるという事態を、"障害""病理"と呼ぶことはいまや間違いで、それは現代の日本人にとっての自己やリアリティに関する認識の新しいスタンダードになりつつあるのではないか、という仮説を提示した。」102
  • 「目の前の現実世界はどんどん矮小化する一方で、マスメディアを介して伝えられる世界や、パソコンや携帯電話のモニターの中の世界はどんどん肥大化し、両者の乖離が取り返しのつかないほど進んでしまった。自分の身体や家族との生活や仕事はもちろん現実の側にあるわけだが、心理的風景の多くを占めるのはメディア世界やコミュニケーション世界の側。」103
  • 「そうなると、ひとりの人間がそれらすべてを見渡すことがむずかしくなる。つまり、「こっちは現実でこっちはメディア、でもどちらを見ているのも私自身なのだ」という感覚を持てなくなるわけだ。」
  • 「すると、「自分が自分の主人である」という"ホスト感覚"が失われ、仕事の場では仕事の自分、ネットのときはネットの自分、携帯メールのときはまた別の自分‥‥というように、人格の統合性が失われ、その場その場でそれぞれ関係のないいくつも自分が生まれることになる。これがいわゆる解離性障害の原因になりうるということについては、前章でも述べた。」103
  • 感情、思考、記憶、身体性などの連続性がなくなり、「昨日の自分と今日の自分」が同じものであるという意識、「私の心と身体」がひとつの同じ自己に所属しているという意識が希薄になる。/「現実なんだか夢なんだかわからない」「すべての出来事がヴェールの向こうで起きている感じ」

20070605

[本]田中ランディ『オクターヴ』

田中ランディ 『オクターヴ』ちくま文庫


マホが、バリでの通過儀礼を経て、「社会を超えて〈世界〉にコミットしながら、でも社会の中で生きていく」あり方に変容するお話。音-絶対音感、世界-社会。

あらすじ

マホは行方不明となったミツコを探しに、日本からバリへやってくる。ミツコとは音大時代からの友人。二人の共通点はピアノ。ミツコの奏でるピアノの音は、単なるピアノの音という枠に収らず、なにか新しい世界を切り開くような特別な力を持った音だった。音楽の神様が降りてきたようなその音に、聴く者は皆魅了された。天才であった。一方マホは、ピアニスト崩れの母に幼少の頃からピアノ教育を施されていた。だが、その才能はなく、長い鍛錬の中で習得されていたのは絶対音感だけ。マホと母親を結びつけていたピアノという唯一の絆を壊さないようにマホはピアノを弾いていた。ピアノは生きる意味と同化していた。高校生の時から、母からピアノの才能がないと不平を言われることが多くなり、母は弟のピアノ教育に必死になった。その時マホは自分が失敗作なのではないかと感じた。そのことがあって、ある時からマホは母の声が単なる音階にしか聞こえなくなりそれによって自分が自分でないように感じてしまう発作が起こるようになる。またその際、記憶が途切れ途切れで曖昧になり、無自覚のうちに母の首を何度か絞めたりした。解離性障害と診断された。

大学を卒業したしばらく後、マホはフリーライターに落ち着く。ミツコは作曲家や演奏者として世に出ようとしていた。だが、ミツコは突然姿を消してしまう。しばらくしてマホの許に三通の絵葉書が届く。どうやらミツコがバリから送ったらしい。しかし、三通目を最後に音信が途絶えてしまった。果たしてミツコが無事か心配になったマホは、ミツコの下宿先へ手紙を送ってみる。返信がきたが、それはミツコによるものではなく、下宿先の人からだった。

20070531

[表現]乙一 白

『さみしさの周波数』角川スニーカー文庫

未来予報
  • 「中学生や高校生の友達もいて、そういった年上の人たちは僕にとってほとんど恐怖だったのに、彼は親しげにコカ・コーラのペットボトルを回し飲みするのだ。」22
  • 「しかしあれはどうも男らしくない気がして好かんのだ。だって耳を覆う部分がふわふわしているのだ。あれは女子供がつけるものであり、男子高校生がつけるものではない。」30

『暗いところで待ち合わせ』幻冬舎文庫
  • 「トイレで少し吐いた。恐ろしかった。」13
  • 「しかし今、ミチルの周囲はいつも暗い。お化けを恐がるためにはまず、声で時刻を知らせてくれる時計に今が夜かどうかを聞くか、カズエに辺りが暗いのかどうかをたずねなくてはならない。今もお化けは少し恐い。だから夜になると、自分には関係ないのに一応、電気をつける。それでも、家の中という限定つきで、暗闇は毛布のように心地よくなった。」14
  • 「食器たちの抗議活動だったのだろう。」18
  • 「この家の持ち主である本間ミチルが、二時間以上前からずっと、石油ストーブの前で寝転がっている。」22
  • 「だったんです。」「どうするのー!?」
  • 「ただ、毎日を寝転がって過ごしているだけだ。」
  • 「その人物は、パンの残りが少ないことを憂鬱に思うけちな女が存在するなどど、思っていなかったのだ。」89
  • 「そういえば、前の写真、現像したけど、ほしい? いちおう、ほしい。 ミチルはそう答えながら、画像が凹凸なって表現される写真が発明されればいいのにと考えた。」97
  • 「音を立てないように気をつけて、窓についた水滴の曇りを左手で拭った。左手のひらが、冷たく濡れる。部屋の中は暖かいはずだったが、手についた水滴の冷たさが腕を伝わり、背中から足先まで抜けた。」22

『平面いぬ。』集英社文庫

BLUE
  • 「手作りのぬいぐるみを売って細々と生活している」176
  • 「ぬいぐるみ一体分を切り抜いても、骨董屋で手に入れた生地には余裕があった。まだいくつかこの生地でぬいぐるみが作れそうだと思い、ケリーはうれしくなった。」178
  • 「湿ったベッドに倒れこむ」181
  • 「ぬいぐるみとして生まれたブルーにとって、子供に愛されることは生きる理由そのものだった。子供にだきしめられる以外の生き方など最初から知らなかった。一度でもいい、いつか自分がばらばらにされるのなら、ウェンディが他のぬいぐるみにそうするように、ただあたり前にだきしめてほしかった」207
  • 「ケリーに会いたくなった。またあの頃のようにみんなでモノポリーをして遊べたらどんなに楽しいだろうと考えた。泣きたかったが、ぬいぐるみに涙腺はなかった。」218
  • 「子供に喜んでもらえるといい。ブルーは期待で胸の縫い目がはりさけそうだった。」192

[本]斉藤環『心理学化する社会』

  • 昨今は「心理学ブーム」
  • 動機のはっきりしない事件が起こったとき、三十年くらい前なら、事件についてコメントを依頼されるのは、小説家や評論家であったが、いまや、心理学者や精神科医にコメントが求められることが多い。それは「 「誰が人間の専門家か」 という意識が変わりつつあるためだ。」「心理学者が人間について最もよく知るものという役割を、社会的に期待されるようになってしまったのだ。」3
  • 「他人に向けて自らのトラウマ、すなわち心の傷について語ったり、あるいは自らを傷つけて見せ、その傷を公衆の面前にさらけ出して、いっそう傷を広げたりするような行為。こういう、いくぶんグロテスクな身振りが、作品や表現として多くの人に受け入れられはじめている。」5
  • 「多くの人々が「トラウマ語り」に魅了され、それを語ることでそこから癒されたがっているという状況」「トラウマのインフレーション」6
  • いまや「普通」は「物語の空白地帯」であり、そのことが人々の言葉から強度を奪ってしまうというのだ。」20
  • 「悪いのは「トラウマ」ではない。その取り扱いが、一種の紋切り型としてパターン化されていく過程のほうが問題なのだ。そして、予測可能なパターンのこれほどまでの蔓延は、それが作家の怠惰でなければ、物語の堕落以外の何ものでもないだろう。」21
  • 「トラウマ的な体験を描写する際、(村上春樹のように)なぜ残虐さが必要になるのか。それはトラウマが本来、安易なイメージ化にそぐわない、直視できない性質のものだからである。要するに彼らはちゃんと「語り方」を心得ているし、その節度ゆえに信頼に値するのだ。フィクションにおけるトラウマをめぐる問題は、どうやらその扱い方、語り方の問題とうことになるのではないか。」22
  • 「人々は、なんらかの方法で、心を実体化、あるいは可視化したいと願っている。心というつかみ所のない存在に形を与えながらドラマを構成しようとすれば、トラウマこそがうってつけの素材であることは論をまたない。」56
  • 「まず、いかなる描写であれ、けっしてトラウマは観客に共有され得ないことを忘れるべきではない。それはあくまでも観客の享楽のために描かれるのであって、告発や風刺とトラウマは原則的に相性が悪い。また、虚構としてトラウマを描くとき、精神医学的な正確さはむしろ物語を殺してしまう。それは必ず、教科書的な図式の退屈な反復に陥ってしまうだろう。トラウマがいかなる効果をもたらすか、ここにおいて作者の創造性が最大限に発揮されるべきなのであり、専門家による「荒唐無稽」といった悪口を恐れるべきではない。(略)逆に、復讐や悪事の動機としてトラウマを描くことは、映画を台無しにするための近道である。動機としてのトラウマは、最悪の図式の一つであるからだ。むしろ人物のキャラクター設定や、サイドストーリー的な要素として取り込むほうが効果的である。つまるところ、トラウマを扱う際の最大の原則は、「トラウマそのものを直接に描いてはいけない」ということに尽きるだろう。なぜならトラウマが効果を発揮するのは、それが常に「覆われた状態」において、であるからだ。」54
  • 「いまや人々は、何かを強く欲することで行動するのではない。物語を動かす道具立てとして、単なる性欲や物欲-つまり「金と女」-ではすでに力不足なのである。そして、これらに代わって人々を動かすもの、それこそが「トラウマ」なのではないだろうか。そう、われわれはもはや不可能になった「大きな物語」にかわり、たとえばトラウマにはじまる「小さな物語」のほうを欲し始めているのだ。」57



  • 社会学的視点から見た社会の心理学化 筆者が引用した樫村愛子氏の著作から孫引き「教育・福祉・家庭などの様々な領域で心理療法の技術が多く使用されるようになり、文化の中での心理療法的言説の比重が大きくなってくるような状態」168
  • 「そのとき心理学は、社会が共有している幻想の舞台裏を暴いて解体してしまうが、心理学そのものが別の秩序や幻想をもたらすことになる。」168
  • 「当時(大正時代)の心理学(ブーム)にはもう一つ重要な役割があって、それは軍隊の適正検査だった。戦争神経症しかり、PTSD概念しかり、心理学や精神分析は戦争によって進歩してきたともいえるだろう。」169
  • 「 「人の心を知りたい」欲望は、心理学の知識が蓄積され、多様化し、さらに一般に普及するにつれて、いよいよ高まる。」「ブームが必ずしも進歩の証とは考えない。むしろ、進歩が不確実だからこそ、ブームが起こるのかもしれない。」169

  • 「20世紀は精神分析の世紀とも呼ばれたが、それは同時に、「精神分析以後の世界」であることも意味している。」
  • 「僕たちは、いまや精神分析的な知識に基づいて自己分析し、抑圧の鎖を自分で解き放ってみせる。」170
  • 「たとえばネット上の匿名掲示板などは、人々がどのように振舞うことで抑圧を解除したつもりになれるのか、その見本市のようなものだ。弱者への差別的な罵倒、近親相姦を含むさまざまな欲望の表明、残虐な暴力衝動の発露。しかし多くの掲示板が匿名であることを考えるなら、そんなふうに「抑圧しない」身振りで、人々が何を抑圧しようとしてるのが、そちらの方を考えてしまいたくなる。抑圧しないこと」によって隠蔽されるもの。それこそが倫理の審級としての「無意識」ではないだろうか。彼らは単に露悪的なのではない。自己分析に基づく「邪悪な欲望」の告白によって、「倫理的に振舞いたい」という、本来的な欲望を隠そうとしているのだ。あるいはそこには、「欲望の不在」への欲望が隠されているのかもしれない。ともあれ精神分析以後の世界では、僕たちの欲望もこんなふうに、はじめから精神分析化を被ってしまう。」「精神分析プレイ」171
  • 「フロイトも指摘しているように、誰にとっても「自己分析」は不可能」「治療関係こそが分析の本質なのであって、自己分析は一般論にしかならない。そして一般論というものは、ついには自分にとって都合のいい解釈でしかないのだ。」171
  • 「断っておくが、ネガティブな解釈のほうが「都合がいい」ことだって珍しくない。たとえば自罰的なことばかり言う人が、全然謙虚じゃなくて、むしろかたくななことが多いのは、その人にとって「自罰」のほうが「都合のいい」事情があるからだ。」171

20070530

[表現]田中ロミオ・山田一

ライター・田中ロミオの作品から。気に留まった表現、語彙を抜粋。

家族計画
  • 「胸を張って、名誉と命にかけて、法的実行力をともなった誓約書にサインと拇印を押したものにかけて、そう断言できるのかしら?神かけて、天と地にかけ て、インディアンの掟にかけて、ハンムラビ法典にかけて、主君の名にかけて、誓うことができるのかしら?あなたの言うところの好意が、何ら邪心のない汚れ なき心から生まれ出た完全で一分の隙もない徹底的絶対的かつ完璧で純粋な究極人間愛に基づく『好意』であると───青葉は息を吸った。言えるの?」

setsuei
  • 「木訥で言葉少なな人」
  • 「つまらない考えに耽溺してしまった」
  • 「子供じみた焦燥に駆られ」
  • 「悲しみは曇りガラスを透かした太陽のように曖昧で不確かだった」
  • 「外は寒いばかりで、低い冬の空はこの家と同じに狭く息苦しい」
  • 「世界を覆っていた真っ白い色彩に目を細めた。まるで白い闇。視界を失っていたのはほんの一瞬だ。目が慣れてしまえば冬の光はなんの力も持たないことがわかってしまう。」
  • 「頬が切れるほど寒い」
  • 「バカ、ブス。なけなしのボキャブラリーを総動員して、精一杯の捨て台詞を投げ捨てる」
  • 「小さく嬌声が挙がった」
  • 「紫色の朝焼けに滲んだ庭」
  • 「黒い帳の向こうから、なにか怖いものに見つめられているような感覚」
  • 「祭りの余韻にあてられて、ぼんやりとした頭を必死に巡らせるが、納得のいく答えはでてこない」
  • 「日々に追われる東京での暮らしの疲れが、湖水のように静かな時間に溶け落ちていくような-そんな心地のよい安らぎがあった。」
  • 「セピア色の記憶の宝石は、気づかなかっただけでまだまだこの土地に埋もれていた」
  • 「お月様きれいだね。 言葉のまま月を探す」
  • 「紫子は相変わらず歩くのが速い。その速さは春風みたいに闊達で、気分がいい。」
  • 「冬は切り離された異界が音もなくすぐ傍に帰ってくるときなのだろうか」
  • 「長い呼び出しの後で不意につながった受話器ごしの声は‥」

  • 「そばに居なければ縁というものは自然と遠のくのだ、と学校の先生に聞かされたことがある」
  • 「一人の人間を戸籍から抹消する場合、死亡以外には失踪宣告という法律の手続きがある。それをしないと、その人間は生きていることになり、相続や税金の問題が解決しないからだ。普通の失踪の場合は、八年経たたないと失踪宣告をすることができない。この場合-危難失踪なら一年でそれが行われることになる」

  • 老獪:経験を積んでいて、非常にわるがしこい・こと(さま)
  • 矜持:自信と誇り。自信や誇りを持って、堂々と振る舞うこと。きんじ。プライド。「犬みたい、という言葉が矜持に引っかかったが‥」
  • 泰然自若:少しも物事に動じないさま。「一人泰然自若としている」
  • 鬼の霍乱(かくらん):〔「霍乱」は暑気あたりの意〕いつも非常に健康な人が、珍しく病気にかかることのたとえ。
  • 荼毘に付す: 〔梵 jhpeta〕火葬のこと。
  • 霞を食う:〔仙人は霞を食って生きると信じられたことから〕俗世間を超越して生きる。

20070526

[本]東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』

途中


なにやら、オタクとポストモダンなんちゃら。ポストモダンにおいて物語的な想像力がどのように展開していくかのパースペクティブ、みたいな。


序章/議論の導入
・「ポストモダンの進展とオタクの出現は、時期的にも特徴的にも関係している。」16
・ポストモダン=「大きな物語」の衰退
・「十八世紀の末から一九七〇年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統の共有で確保されていた。ひとことで言えば、きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。」17
・「ポストモダン論の提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有すべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである。」19
・「しかし、一九七〇年代以降の「ポストモダン」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる、別の感性が支配的となる。そして、日本でも一九九〇年代の後半からその流れが明確となった。」18
・「ポストモダンにおいても近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダンの相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。」19
・「ポストモダンにおいては、すべての「大きな」物語は、ほかの多様な物語のひとつとして、すなわち「小さな物語」として流通することが許されている(それを許せないのがいわゆる原理主義である。)ポストモダン論は、このような状況を「大きな物語の衰退」と呼んでいる。」20
・「現在の日本では、オタクたちの作品や市場が、そのようなポストモダンの性格をもっとも克明に反映し、表現や消費のかたちをもっとも根底的に変えている。」17
・「したがって筆者は、二〇〇〇年代の物語的想像力の行方について考えるために、まずは、その物語の衰退にもっとも近くで接しているはずの、オタクたちの表現に注目するべきだと考える。これが本書の出発点である。」17


筆者によるライトノベル考察
・「キャラクターのデータベースを環境として書かれる小説」45
・キャラクターのデータベース=キャラクターの自律化と共有財化。作品と作品のあいだに広がる想像力の環境。
・キャラクターの自律化=「キャラクターの性質がドラマ(の可能性の束)に優先していく」41、「物語ではなく、キャラクターのほうが基礎的な単位として感覚される」42
・「ライトノベルの作家と読者は戦後日本のマンガやアニメが育て上げてきた想像力の環境を前提としているために、特定のキャラクターの外見的な特徴がどのような性格や行動様式に結びあわされるのか、かなり具体的な知識を共有している。」45、「描写とキャラクターのデータベースのあいだで仮想的な対話を行い、その結果そのものを文章のなかに組み入れて描写」、語り手と読み手のあいだの一種の共犯関係
・ライトノベルのキャラクター 「個々の物語を超えたデータベースの中に存在している。少なくともそう想像されている。」「さまざまな物語や状況のなかで外面化する潜在的な行動様式の束」
・ゆえにどのジャンルにも登場できる。
・製作において、作品(物語)の層と環境(データベース)の層が別々に存在する環境におかれている。


ライトノベルとポストモダンの関係
・「オタクたちが作り上げたキャラクターのデータベースは、まさに、決定的なひとつの物語を成立させないにもかかわらず(キャラクターが物語を逸脱してしまうと言う意味で)、複数の異本としての物語をつぎつぎと成立させてしまう(ひとりのキャラクターから複数の物語が生成すると言う意味で)という点で、ポストモダンの物語製作の上限を体現する存在だと言える。」50
・「筆者はポストモダンでは「大きな物語」が衰えるため、小さな物語はむしろ増殖し氾濫するように見えると指摘した。」50
・「 「ライトノベルはポストモダン的な小説である」という本書の主張は、必ずしも作家がその位置を自覚していることを意味しない。作家のひとりひとりは締め切りに追われながら、より売れる小説、より人気の出る小説を作ろうと努力しているだけかもしれない。しかし、その素朴さゆえに、ライトノベルの想像力はオタクたちの動物的な消費原理を、すなわちポストモダンの時代精神をみごとに反映してしまう。」50
・「ライトノベルのポストモダン的な性格を、小説内容そのものにではなく、小説と小説のあいだの環境に見ている(略)。」53

・「いわゆる「ポストモダン文学」は、小説の内部でいくら前衛的な実験を行っていたとしても、現実には保守的な文学作品として流通している。彼らの小説は文芸誌に掲載され、文学賞を受賞し、大学で教材として取り上げられる。その環境はポストモダンの条件からほど遠い。」
・「ライトノベルは、かりにその小説の内容こそ類型的な凡庸なものだったとしても(略)その制作や流通の過程は近代文学のそれから大きく離れている。」53


「まんが・アニメ的リアリズム」なるもの
・大塚英志がライトノベルを論じるに当たり導入した概念
・ライトノベル以外の小説はすべて現実を「写生」するものであると捉え、一方でライトノベルは「アニメやコミックという世界の中に存在する虚構を「写生」する」ものと捉える。
・虚構の写生
・自然主義的リアリズム-描写の起点としての「私」を必要とする創作手法
 まんが・アニメ的リアリズム-「私」や生身の身体を持つ人間ではなく架空のキャラクター 58

コミュニケーションとしてのリアリズム
・公共性-「人間と人間が、共同体的な限界を超えて出会う場所」
・近代社会もポストモダンの社会も、村落共同体を超えて成立する巨大な組織なのだから、必然的にそのような場所を必要とする。」
・稲葉振一郎氏によれば近代文学の自然的リアリズムも、ポストモダンのまんが・アニメ的リアリズムも、まさにその場所を作り出す装置として解釈できる、と筆者は言う。
・「表現はそのまま現実を向かいあうわけではない。いかなる表現も、市場で流通するかぎり、発信者と受信者のコミュニケーションを抜きにしては成立しない。」62
・「自然主義文学の作家は、現実を描くべきだと感じたからでなく、現実を描くとコミュニケーションの効率がよいので、現実を写生していた。同じようにキャラクター小説の作家は、キャラクターを描くべきだと感じているからではなく、キャラクターを描くとコミュニケーションの効率がよいので、キャラクターを参照している。」62
・「架空世界のガジェットからなる「データベース」は、今日の文芸の世界において、ある意味ではほとんど「現実世界」の代替物と言いうるほどのところにまで発達してきてしまっているのです。」62
・大塚はコミュニケーションの効率性の基盤それぞれを「リアル」と呼んだと理解すればいい。63

・公共性を得るまでに発達したキャラクターの「データーベース」。それは戦後のアニメ・マンガの想像力が育て上げてきた。

20070525

[表現]田中ロミオ『人類は衰退しました』

途中

・「でも、藪をつついて蛇を出す愚は避け、そそくさと自室に引き下がることにしました。幸運の原因を突き止めようとして幸を逃すことはないのです。」66
・「それは確かに楽で知的な仕事を望んではおりました。しかし無意味な仕事がしたかったのかと問われれば答えはまったくもってNOであり、要するにわたしは効率よく人生の充実が欲しかったのです。」53
・「さっさと知の高速道路にのって一人前になりたいのです。」51
・「そういった手管ですか。なんどか学者生活でくらいましたけど。」

20070521

[web]個性にしか回収されない車いす

「車いすは個性だ」

都合のいい言葉。
誰に向けて発せられた言葉なのか。
しかし、この表現で妥協しておくしかないのかもしれない。
問題は複雑。
個性に回収して思考停止。
それが楽でいいのかも。

発する立場によって温度が異なる言葉。温度差。
しかし、その温度差をはじめから前提とし、許容しているようにみえる言葉。
それは、この温度差を埋めるために必要な前段階としての自己(他者)認識の発現なのか。
それとも、マイノリティのナルシズム。
マジョリティが聞いても安心できる言葉。
お互いいい気持ちでいるための便利な言葉。

何かを棚上げにしている気がするが、さしあたり皆がこの言葉を聞いて、快く思っているのなら、価値のある言葉といえなくもない。

[web]“ハッカー大国”露政府、IT国エストニアにサイバー攻撃か

概要
「ロシアとの関係が悪化している旧ソ連バルト三国の一つ、エストニアの政府機関や銀行のコンピューター・ネットワークが、約3週間にわたってロシアからの猛烈なサイバー攻撃を受けている。エストニアは、一部の発信元がクレムリンやロシア政府のコンピューターであると主張し、北大西洋条約機構(NATO)も調査に乗り出した。ロシアは国としての関与を否定しているものの、今回の事態は改めて“サイバー戦争”の脅威を想起させている。(タリン 遠藤良介)」

波紋
「しかも、政府の専門家が調査したところ、初期の攻撃ではクレムリンやロシア政府のIPアドレスが使われていたことが判明。アビクソ国防相は14日の欧州連合(EU)国防相会議に際して「現在のNATOはサイバー攻撃を軍事行動とはみなしていないが、この問題は近く解決されるべきだ」と述べ、NATOが加盟国へのサイバー攻撃をも集団的自衛権発動の対象に含めるべきだとの考えを示した。」

ロシアの対応
「クレムリンの報道官は再三にわたってロシアの関与を否定し、ハッカーがクレムリンや公的機関のコンピューターを装って攻撃を仕掛けている可能性を指摘した。」

20070311

[表現]阿部公房 『砂の女』

阿部公房『砂の女』新潮社 から

比喩表現・描写・薀蓄 をメモ

  • 映写機が故障したように、二人はじっと動かなくなった 147
  • ふいに、ひんやりと濡らしたハンカチのような影がおちた。雲が出たのだ 164
  • 苦痛が、そっと周囲の風景のなかに引いていく。 173
  • 見当をつけそこねて、はみ出してしまったようなはしゃぎかただ 178
  • 胃を吐き出して吠える、不安な犬 179
  • 静かだ!‥‥まるでゼラチンの底に閉じ込められているようだ 199
  • 手段の目的化による鎮痛作用 199
  • 野次馬的な好奇心だけは、もぎ忘れた柿の実くらいには熟しきっているにちがいない 88
  • 死んだ蠅の脚のような活字 101
  • 何度か鼻面をぶつけて、金魚鉢のガラスが通り抜けられない壁であることを、はじめて知った魚137
  • 罰とは、とりもなおさず、罪のつぐないを認めてやることにほかならないのだから 60
  • たしかに労働には、行先のあてなしにでも、なお逃げ去っていく時間を耐えさせる、人間のよりどころのようなものがあるようだ 177
  • 傷だらけの片道切符を、鼻歌まじりにしたりできるのは、いずれがっちり往復切符をにぎった人間だけに決まっている 181
  • 猛獣映画や、戦争映画のたのしみは、たとえ心臓病が悪化するほど、真に迫ったものであったとしても、ドアを開ければすぐそこに、昨日の続きの今日が待っていてくれるからなのだ 203
  • 互いに傷口を舐め合うのもいいだろう。しかし、永久になおらない傷を、永久に舐め合っていたら、しまいに舌が磨滅してしまいはしないだろうか 231
  • あてもなしに、ただ待つことに馴れ、いよいよ冬ごもりの季節が終わったときには、まぶしくて外に出られないということだって、十分に考えられるわけである 239
  • けっきょく砂地の乾燥は、単に水の欠乏のせいなどではなく、むしろ毛管現象による吸引が、蒸発の速度に追いつけないためにおこることらしい 259


故事成語・慣用句・その他言葉の意味

万事休す
  1. すべてが終わりである。もう何とも施すべき方法が無い 広辞苑
  2. すべてのことが休んでしまった。これ以上先に進まない 言葉のレシピ 語楽より一部引用 
  Webで調べてみると唐の李白の詩と宋史、この2方面から出典がある様。しかし、それぞれ成語のいきさつ話として納得のいくようなエピソードではないと感じた。というのも、この「万事休す」という語に関しては、「すべてのことが休んでしまった」という字面通りの現代語訳からでも、その意味が十分に伝わると思うからだ。検索をかけて引っかかった主な2つのエピソードは、成語の由来としての故事ではなく、使用例としての故事といった方がいいのかもしれない。


さいなむ(苛む)
  1. しかる。責める
  2. いじめる。苦しめる。むごく当たる。折檻する  広辞苑
「だが、そう思ったとたんに、ひどい屈辱に息をつまらせた。遠からず、女をさいなむ刑吏になりはてた自分の姿が、まだらに砂をまぶした女の尻の上に、映し出されるような気がしたのだ。」 61


賽の河原
  1. 小児が死んでから苦しみを受けるとされる、冥途の三途の河原。石を拾って父母供養のため塔を造ろうとすると鬼が来て壊す、これを地蔵菩薩が救うという。転じて、いくら積み重ねても無駄な努力 広辞苑
  2. 親より先に亡くなった幼児たちは極楽には行けず、本来なら不孝の罪によって地獄に行くところが、幼少のため、この賽の河原にとどまり、一つひとつ小石を積み上げる
  3. 参考:地蔵和讃


狼狽
  1. (「狽」は狼の一種。一説に、狼は前足が長く後足は短いが、狽はその逆。両者は常に共に行動し、離れると倒れて、うろたえることから)あわてふためくこと。うろたえ騒ぐこと。
  2. 「うろたえる」とは、不意の出来事に驚きあわてて、まごつくこと、とのこと。 広辞苑
 ※若干補足すると、「 この二つの動物はお互いを支え合って生活をしており、狼は狽無しに歩くことが出来ず、狽も狼無しには歩くことが出来ない。もし、この二匹が離れるようなことがあれば、動き回る事ができなくなってしまう」。そして、狽とは架空の動物であるとのこと。そんな架空の動物が、実際に存在する狼と行動を共にする理由がわからない。そこから「この意味の中の狼は現在の狼の事とは微妙に別物らしく、お互いがバランスを取り合って生活しているという意味の話に出てくる存在らしい」という説もある。また、現在、中国語で「狼狽」と言うと、日本とは異なり「散々苦しんだり、悩んだりする」という意味らしい。
 ※また、中国語で「狼」は牝狼を意味する(牡は別の字)こと等から、狼をメス・狽をオスと無理やり仮定した上で、「(前足の長い)狼の後ろに(後ろ足の長い)狽が乗る」というもう一つの説明を合わせて考えた結果、「狼狽」したのは他ならぬ二匹の、「オスがメスの上に重なっている状態」を見られたからかもしれない、と導く面白い解釈もある。たぶんそんなことはないと思うが‥
 ※参考
    http://page.freett.com/kiguro/z-gogen.html
    http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Ink/3399/sitteru0.htm
    http://tisen.jp/tisenwiki/index.php?%CF%B5%C7%E2

20070211

[メモ]ピタゴラス派の天球運行の諧音

ピタゴラス派における、ハルモニア・ムンディ(宇宙の音楽、天界の調和) の宇宙観について


 ハルモニア・ムンディとは古代ギリシャのピタゴラス派と呼ばれる人々の宇宙観のこと。その宇宙観は、宮沢賢治の作品『シグナルとシグナレス』にも「ピタゴラス派の天球運行の諧音」という表現で少し顔を出している。宮沢賢治を読み返していてこの単語を思い出した。



ピタゴラス派の天文理論
  • 全宇宙の秩序は数からなっており、数の比によって支配される。(ピタゴラス派は、協和音〈ハーモニー〉が数比といった数の原理に支配されているという発見-たとえば二本の弦の長さの比を1対2にして弾くと和音がでる、というような-を通して、感覚される世界の美しの秘密は数にあるのではないかと考えた。さらにそこから、広く生成や存在を決めている秘密は数にあるのではないかと考えるに至るのである。)
  • 宇宙の中心に「炉」と呼ばれる燃える火があって、そのまわりを太陽、月や地球など全部で10個の天体が回転している。(ピタゴラス派において、’10’というのは神聖な数であり、それはテトラクテュスという三角形の数記号に象徴化されているとのこと。また「対地星」という理論上仮想される天体を導入することによって、観察事実によらず半ば強引に天球の数を10という完全数にあてはめて考えていた。)
  • 天球の速度は「炉」の中心からの距離の比に応じているから、高速で公転する巨大な天体は一個一個がすべて、特定の音程でそれぞれに音を出しているはずだ。しかもそれがオーケストラの各楽器のように全体が美しいハーモニーを奏でている。
  • 宇宙は美しい星空として目に見えるだけでなく美しい音楽にも満ちているはずだ。
  • ただし、われわれは子供の頃からその環境の中で育ったためにその環境に慣れてしまいそれが鳴っていることを感じられない。


参考:
荻野弘之 『哲学の原風景』 NHKライブラリー

20070203

[表現]気なる表現



バカ編

「肺に青いバラが咲いて死ぬ奇病」 
※ヤングジャンプ。何でもロマンチックに美化してしまう少女マンガを少し小バカにした感じで使用。「青いバラ」という表現が新鮮な感じの極地。青バラ~」はゴスロリ・ビジュアル系なども同じ匂いがする。新鮮な表現だと感じつつ、ステレオタイプの印象を受けるのが面白い。普通の文脈で使ってもバカで面白い。

「ちょうちょ結びの高気圧が 君のハートに接近中」 
※GAOの溜池nowで流れた「金魚注意報」というアニメの歌詞。歌詞全体も天気用語の比喩で埋め尽くされている。「高気圧」に例えられているのは多分、恋する元気な女の子。そういうことが歌詞の一行で表現できているということはすごい。と同時に、普通の文脈で使うとちょっと面白いバカ表現になるので、いい。また、この歌詞には他にも「今日もはなまる」という表現もあり、能天気でバカで面白い。

「目でピーナツをかめ!」
※ドラえもん。ジャイアンがのび太と何かの賭けをして、その敗者がやる罰ゲームとして提案。目でものをかむという、(字面どおりに考えるなら、目の機能からすれば論理的に不可能な)無茶なことを言い出すジャイアニズムに感服。漫画の中ではのび太が結局負けて、まぶたでピーナッツを挟んでいた。言い方が面白いし、その無茶な言い方の背景にジャイアンの考え方が見え隠れしていて、「ジャイアンだからこの言い方にしかならない」と変に納得してしまうところもまた、面白い体験だった。



文学的比喩表現編

「銀の針の様な ほそくきれいな声」 ※宮沢賢治 「黄色いトマト」

「ピタゴラス派の天球運行の諧音です。」  ※宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」

「かま猫はもうかなしくて、かなしくて頬のあたりが酸っぱくなり、そこらがきいんと鳴ったりするのをじっとこらえてうつむいておりました。」  
※宮沢賢治 「猫の事務所」。悲しさのあまり、悲しくて頬のあたりが酸っぱくなったり、そこらがきいんと鳴る感じというのが自分にとって何だかリアリティを感じた。悲しいときには本当にそうなるかも、とは思うが、実際そういう体験をしたことがあるのかないのかは思い出せなく、曖昧。しかし、その悲しい様は伝わってくるし、悲しさの在り方の一つとして共感もできる。悲しいを「悲しい」という言葉だけで表現するだけではなくて、悲しいときに体に起こる生理的な反応をやわらかい言葉で分析的に記述することにより生じている雰囲気がとてもいい。科学の態度を文学の態度の中に取り入れることによって、この「いい雰囲気」を作っている。

20070131

[メモ]屠殺 または と殺

屠殺
  • 「屠殺は、人間が家畜を飼うようになって以降、肉を食べたりその皮革を利用するために行われてきた。それ以前には、野生動物を捕獲する際に致命傷を与えるなどして殺害していたが、これは「捕殺(ほさつ)」とも呼ばれ、動物を捕らえるために殺す・その肉体を確保するために殺す行為(→捕食)であることから、屠殺とは区別される。」
  • 「都市構造の発生・発展に伴い、次第に分業化と一元化されるようになってきた。古くは各家庭もしくは酪農家で家畜の生命を絶つ行為が一般的に成されていた物が、肉屋などの専門業種による屠殺へと変化し、更にはと畜場や食肉工場といった専門施設における集中処理へと変化し、世間一般の目には触れないようになっていった。」
  • 「これらは主に、動物の生命を絶ち食肉に加工する上で発生する血液や食品廃材といった副生成物(産業廃棄物)の処理や、あるいは食糧生産や環境に対する衛生面での配慮、加えて「殺害する」という面での倫理的な不快感といった事情にも絡んでの分業化・一元化であるが、特に宗教などの食のタブーといった理由から、特定の処置が食料生産に求められる地域では、一種の宗教的な施設であるという側面も持つ(→カシュルートシェヒーターなど)。」


屠殺の思想

  • 「屠殺では、その行為によって動物が苦しまないようにとの配慮が成されている場合も多い。近年では動物虐待に対する忌避感もあるが、その一方で過度に暴れさせるような屠殺は動物に不要且つ過剰な苦痛を与えるだけでなく、従事者にとって危険であり作業効率も悪い。このため多くの社会では、より速やかに且つ苦しませずに動物を絶命させる方法が研究されてきた。」
  • 「現代では先進国を中心に、炭酸ガス麻酔、あるいは頭部への打撃や感電による失神の後に首の動脈を切断することによる失血死、あるいは失神後に脳組織を物理的に損傷させることで生命活動を停止させる方法が取られている。しかし宗教的な理由にも絡み、古くからの伝統的な屠殺方法を取っている事の多いイスラム圏などでは、後肢に綱を掛け頭部を下にして吊るしたら、間を入れずに動脈を切断し、ある程度は空中で暴れさせて、急速に失血死させる方法を取っている。」
  • 「なお失血死という方法は、肉に血液が残る量が最小限に抑えられ、肉の劣化や腐敗を遅らせる効果もあっての事で、特にこれは冷蔵庫が普及する以前は、鮮度の低下で廃棄される肉を最小限に抑えるための技術でもあった。この技術が発達した背景には食中毒の予防と同時に、犠牲となる生命に敬意を払い、無駄を最小限とするための倫理的な思想も見出される。」
  • 「肉食という行為は、動物の生命を頂く事で自らの生命を永らえさせるものである。このため犠牲となる動物に感謝を捧げる思想も見られ、その感謝の意味で苦しませる事への忌避も見られる。その延長で動物の苦痛に対しても言及している文化もあり、例えばユダヤ教では「一回の切断で致命傷を与える(何度も切り付けない)」ために、屠殺に使う刃物(ナイフ) は「良く研磨されているもの」と定めている。これは「よく切れる刃物で切り傷を負った場合は、一時的な麻痺により負傷直後は余り痛みを感じない(後に治る 過程での痛みはある)が、切れ味の悪い刃物で怪我をすると、切った直後から酷く痛む」という人間自身の経験によるものであると考えられる。」

屠殺の現場

化製場
  • 「化製場(かせいじょう)とは、死亡した家畜の死体などを処理する施設の総称。法律及び業務内容から、死体の解体及びその後の埋却もしくは焼却のみを行なう「死亡獣畜取扱場」と、真の意味での化製場(後記参照)とに分けられるが、殆どの場合は一つの施設で両方の役割を担っている事が多い。」
  • 「設置に際しては「化製場等に関する法律」に基づいた都道府県知事の許可が必要になり、鶏などの家禽及び魚介類のみを扱う場合でもこの法律が準用される。また、原料の調達はその会社自らが行なっている場合が多く、原料を運ぶ車輌はそれ専用の物が必要となる。このため、動物質原料運搬業の営業許可を併せて取得している場合が殆どである。」
  • 「施設の外見は普通の工場と大差はないが大雑把に言うと、家畜を食用目的でと殺する際に生じた食用に適さない部分(内臓や骨など)を主な原料として油脂類・ゼラチン類のほか、石鹸・ペットフード・肥料・化粧品の原料、及び肉骨粉などを製造する工場である。原料はこの他に食肉加工場でトリミング(形を整えたり、重量を揃えるための行程)を行なう際に生じた屑肉や余分な脂肪、食用目的でと殺する前に農場で死亡した家畜の死体そのもの(感染症で死亡したものは除く)なども含まれている。」
と畜場
  • 「と畜場(とちくじょう、漢字制限以前は屠畜場)は、牛や豚、馬などの家畜を殺して(とさつ)解体し、食肉に加工する施設の法律上の定義の名称である。」
  • 「現在、各施設の具体的名称は、「食肉処理場」「食肉センター」などの名称が付されているものが多」く、「主に、食肉加工会社や第三セクターによって設置され、食肉市場を併設していることが多い。」
  • 「と畜場法に基づく食肉用動物である家畜(日本では牛、馬、豚、緬羊、山羊の5種類の家畜のみで鹿や猪は法の対象外)は、搬入されシャワーで汚れを洗い流してから食肉衛生検査所の獣医師の免許を持つ「と畜検査員(ほとんどは都道府県や政令指定都市の 職員)」による病気等外観の検査(生体検査)を受ける。屠殺は、前頭部への打撃あるいは電撃によって昏倒させたあと頸動脈を切開し、両後肢の飛節に通した 鉄棒で吊り上げ、失血死させるという方法で行われる。屠体はそのまま施設の天井に取り付けたレールに沿って各作業配置を順に廻り、解体されていく。途中で 適宜と畜検査員により病変組織のサンプリングと検査が実施される。解体順序はごくおおざっぱに言って、頭部切断・剥皮・内臓の摘出・背割り・枝肉検査など と続き、半頭分の肉の塊(半丸枝肉)となる。たいていは解体ラインの階下に白モツなどの内臓を分別・洗浄・パッキングするための作業場があり、ラインで切り離された臓器をシュートに投入することにより下の作業場に送られる仕組みになっている。」
  • 「食肉市場で取引された枝肉はここから町の精肉店や、スーパーマーケットなどに搬送され、ももやヒレなどの部位ごとに小分けされて、一般に市販される。」
  • 「O157やBSE対策のため小規模施設の多くは廃業し、残った施設も衛生対策のため施設の新築等を行なった。 牛についてはトレーサビリティ対応を行なっている。」
その他

と殺に関する通常の認識について:
生きた牛と、食卓の肉料理の間がブラックボックスになっている」

差別用語とされる「屠殺」という表記法について:

差別は意識の問題であり、差別語をなくしても差別は無くならない。それどころか差別の実態を見えなくしてしまう危険性をはらんでいる

参考:

と殺-Wikipedia    (但参考時070131)
化製場-Wikipedia  (同)
と畜場-Wikipedia   (同)


20070129

[メモ]マース・カニングハム

モダンダンス、ポストモダンダンスの両方に位置しているとされるダンサー


モダンダンスにおけるプリミティブ

モダンダンスとは、二十世紀初頭クラシック・バレエのアカデミズムに対抗して登場してきた舞踊とそれに連なる流れを指す。しかし、内容面では主として文学的主題を扱い、形式面ではクライマックス中心の構造を堅持し、身体の動きによる内的主観世界の表現の探求として、主観と芸術の関係性に傾斜した19世紀的なロマン主義、表現主義、象徴主義のプレモダン的な性格を残す。


モダンダンスに色濃く残るプレ・モダニスト性に対する批判的な態度

舞踊の主題は踊ることそれ自体にあるのであって、ことばによって表現できる類ではないという態度。動きを文学的内容や感情の記号ではなく、「動きとしての動き」「動きそのもの」として捉え、そこに内在する表現可能性が求められる。


カニングハムが重視したもの

動きを通して他の何ものかの「再現」や「表現」するのではなく、動きがそれ自体として持っている表現力・喚起力をそのまま引き出そうとする試み。動きそのものによる表現・喚起効果はその時その場に応じ、個人によって異なったものとして「発見」される。そこにおいて観客は作品の消費者ではなく生産者となる。観客は自らに与えられるべき作品的なものを、自ら見出す。「カニングハムの重要性は、私たちが眼にし耳にするようにそこに与えられているものにのみあるのでなく、そこに与えられているものを私たちが眼にし耳にする仕方の内にある。」


カニングハムのダンス・その方法的特徴
  • 舞踏を他の芸術の先導や補助から解放し、また動きが自己自身以外のもの再現や表現という役割から解放し、それによって動き自体の構成を獲得する振り付けのために、「偶然性」を重視。偶然によるダンスの進行。次に何が起きるのか決めるのではなく、どのように決定が行われるのかを決めるのみ。
  • 多様な動き、多様な構成を目指すものとして、「日常の動き」を振り付けとして取り入れる。
  • 音楽・舞踊・舞台装置を連携させず、相互に独立した演出。(動きの自律を顕在化させるため、比較によって顕在化しているのをわかりやくするための演出。比較することに頼っている時点で、逆に音楽・舞踊・舞台装置は厳密な意味では独立ではなく、むしろ演出の上で大きく依存している。)非協同的協同制作。
  • 脱中心化、平等主義。作品の明確すぎる統一感や観客に単一の焦点を押し付けたりするのをさけて作品を開かれたままの、不確定状態へ置く。「どのポイントも平等に興味深く、平等に変化していくこと」が念頭に置かれている。舞踏、照明、装置、音楽はそれぞれ独立の中心をなし、舞踊家の動きも空間全体に均質に配分され、随時舞台の正面に来るものが入れ替わり拡散する。


参考:

『帰宅しない放蕩娘』 外山紀久子 勁草書房

[メモ]人間疎外

人間疎外

 市民社会
  • 十八世紀後半、産業革命と市民社会を迎えたヨーロッパ
  • 国家権力と明白に区別された「経済社会」ないし「産業社会」「市民社会」と名づけられる新しい様相の登場。政治社会-経済社会(市民社会)
  • 「自由競争」「市場経済」を原理として持つ
  • ヨーロッパにおいて産業革命が勃興。それにより物資の大量生産が可能となる。生産物を売る市場、または買う市場を求めてヨーロッパ文化圏から他の文化圏へ接触。軍事力を背景に植民地という形で支配。内に市民社会(資本主義)、外に植民地支配(帝国主義)。 
 人間疎外
  • 市民社会における矛盾。
  • 市民社会(経済社会)における弱肉強食に端を発する。抑圧階級-非抑圧階級。
  • 市民社会における、人間らしさの喪失。非人間性。
  • マルクスの疎外論:「まず労働者は自分のつくった労働生産物から疎外され、つぎに労働を自らの行為として感じることができず、そして人間らしさを失って動物並みの欲求水準に落ち、また階級対立によって対等なコミュニケーションから除外される」。資本主義においてはそのような疎外は必然的であるとした。(マルクスはそのような「疎外」の解放手段として共産主義を構想)
  • 本来は人間の主体的活動であった労働とその(結果としての)生産物が、利潤追求の手段となり変わり人間が労働力という商品に還元されることによって、人間が資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われる。人間が作ったものが人間を離れ、人間を支配してしまうことによって人間的らしさ(類的性質)が見失われる。働く喜びの喪失から発展する、人間らしさからの疎外。
  • ヘーゲルにおいて疎外は、人間の認識の深化・発展のための不可欠の一契機として考えられられる。疎外の解放手段(矛盾の解決手段)は「人倫」最高形態たる国家に求める。


参考:

『ヨーロッパ社会思想史』 山脇直司 東京大学出版会
疎外-ウィキペディア
 (但参照時070128)

20070123

[メモ]Wilhelm Dilthy(1833-1911)

講義「現代哲学」のノートを整理。
 --------------------------------

現代哲学 Wilhelm Dilthy

講義ノート

 ディルタイの哲学:人間の「生」中心の哲学
          合理的思考を乗り越えようとする哲学   理性<直観


「生」、個人:心配ごとや悩みに翻弄される「心理的生命」の側面
       他にも「文化的生命」の側面もあるという。

cf.-ヘーゲルの「客観的精神」と似ているとのこと     
  -文化的生命とは、例えば、文学・宗教・組織形態など
  -哲学もそのような文化的生命の一つの形態である 


生命→経験からしか知ることができない
しかし、経験から知られるといっても、その知り方はただの経験主義から区別される。
感覚的経験主義ではない。感覚によって生命を捉えるのではないという。

彼によれば、

生命:
  • それぞれ独立した諸部分からなる全体ではなく、有機的な全体であって分析できない。 
  • 生命は「概念」ではなくて、「経験」であるとのこと。

さらに、

「生命を知る」ことは生命を「理解する」ことである。
「理解する」とは、「全体の意味を捉えること」である。
すなわち、「複合的な事態を一つの意味として捉えること」、それが「理解する」ことであるとディルタイは主張。
彼によれば、生命の中から生命は理解できる、と。
(cf.この立場は、ベルグソンの用語「直観」が持つニュアンスと似ているとのこと。)



  • 生命哲学の入り口:私たちには生命があるから自分の生命に立ち戻ることができる。

  • 「理解」における見解。ハイデガーとディルタイの類似性。
  • 理解という行為がなされるときには、行為者が何らかの立場に立ってそこから解釈を行う、ということが起こるのであって、ただ端的に「理解する」という理解行為というのはないのではないか。ハイデガーの「理解」観はこのようなものであったが、ディルタイもこの「理解」観と近いものを持っていた。

・プラトン・アリストテレスの哲学というのは、「普遍」をめぐる学問であったが、一方でディルタイの標榜する「生の哲学」では「普遍」ではなく、「生」を扱う。

・生の哲学は「生」の全体の見通しを得るものである。生命は有機的な全体で全てが繋がっているので「分析」的解釈はムリ。よって全体を見渡せる「見通し」が必要。

・生の哲学はどのように展開していくか。

  • 具体的現象を、内(生命の?)から追経験しようとする形で生命を理解しようとする。
  • そこにおいては、「記憶」が大事との事。
  • 記憶は、過去の理解を通して現在を理解する。さらには、未来に対する「先取り」なるものも行う(記憶が、過去の理解を通してか?不明)。
  • このように生命は、ひとまず「時間的なもの」である。
  • それでは、さらなる生命の理解はどうやって深めればいいのか?
  • 曰く、「理解」には「カテゴリー」が必要である、と。(そこら辺カント的)。ディルタイは、生の構造を「カテゴリー」で浮き彫りにしようと試みる。
 
*「カテゴリー」。カントの場合は、物理的対象の分析用に用いた概念装置であり、その領域では「因果性」が重視されていた。しかし、ディルタイは「カテゴリー」を、カントのようなものではく、生命そのものを特徴付ける範疇であると考えていた。
*カントは、感覚の根拠、判断を可能にするそもそもの「形式」として「カテゴリー」を設定していた。ディルタイは、生命以外の立場から生命を測るべきでない、とする。
*ディルタイは、やはり生命の内側から生命を特徴づける範疇を探さねばならない、という立場から、範疇は数式にはなりえないということを主張。
*生命のカテゴリーは様々にあって、少しずつ発展していく、という立場。



*それではどういうカテゴリーが想定されるのか
   EX. 「内と外」: 内→私の意識の中 外→私の意識の中を表現すること。私によって表現された、私の意識の中。
例えば、上記のような範疇が、これから豊かに発展していく範疇のひとつ。

さらに、

範疇 その2  
  • 「力」 :力とは、対象に対する影響力を指す。単なる物的な力だけでなく‥云々(失念)

範疇 その3 
  • いくつかの部分から成っていながら、一つの全体をなしている。だが、分割はできない。質的に違った部分が一つの全体を構成する。(これは範疇か)
範疇 その4 
  • 「手段―目的という意味連関」。生命は目的を追求するわけだから‥云々(失念)
ディルタイによれば、生きているから豊かになろうとする、とのこと。「豊かになる」は未来における一つの目的である。現在の段階でそれを先取っている。
 


・範疇 その4について。

*「手段―目的」の理解について。フランス革命の例。
われわれは、フランス革命の「目的」をその出来事の「意義」を通して理解するのである。

*生命は、その完全的な在り方においては、「ダイナミックな目的」を持つ。生命を経験するんだ、と。ディルタイにおいては、経験概念が中心的であるとのこと。
ディルタイは、イギリス経験論の狭さを開放する。経験とは→意味を経験すること、
と捉える。

 *さらに、問おう。「意味ある」経験はどのように成り立つのか、
 *具体的経験の中には色々なカテゴリーが含まれている。カテゴリーの大部分は無意識的に働いている。例えば、「内」と「外」とを自然に区別している。
 *さらに例えば、バラを見て美しいと思うとき。「目的がある」「発展するものだ」「全体としてなりたっている」とバラを見ている。それらが潜在的に含まれているという。
  具体的経験の中に生のカテゴリーが潜在的に含まれる。
 *それを後で反省して、具体的経験から「生」というものを浮き彫りにしていく。
 *ある経験をしたら、それを解釈しようとする。そのことが「生」を理解しようとすることになる。
*その理解する作業を進めていくと、芸術・倫理・哲学が生まれる。個別のケースから一般的なことを言おうとするのである。
*それを発展させて言語化する。そのような過程で世界観が誕生してくる。

*個別的な諸経験に基づいて、「生」という全体を捉えようとする過程で、世界観がまとめられる。

*認識の展望性というキーワード。私たちは、(世界観によって)全体を全体として捉えられるか。ディルタイによれば、それだけを完全に捉えることはできないが、全体の「暗示」は含まれるという。認識の展望性というのは、全体の暗示。

*展望性の中に暗示される全体性をどのように説明できるか、というのがディルタイの哲学における課題である。

 ---------------------------------

ディルタイ関連

[ディルタイ- Wikipedia]
[生の哲学 - Wikipedia]
[西洋哲学学説]
[カント × ディルタイ]

20070121

[Web]グーグルと英軍、テロリストによるGoogle Earthの利用について協議

グーグルと英軍、テロリストによるGoogle Earthの利用について協議 - CNET Japan

この記事によれば「Google Earthの航空写真を利用したテロリストがバスラ(イラクの地名)の英軍基地をピンポイント攻撃したという証拠が発見された」とのことである。それに対応して英軍とGoogleとの間に協議が持たれたということは、Google Earthがテロリストの軍事活動に使われるほど高い機能性持つということを英軍が認めたということだ。機能性に関してはもはや軍隊からもテロリストからもお墨付きをもらったといってもいい。

Google Earthによって全世界の全地域の衛星写真を手に入れることが可能になったということは、「衛星写真で世界観光地巡り」などといった新しい娯楽が開拓されると共に、軍事的にも新しい可能性を開拓した。Google Earthの衛星写真の解像度は、テレビのニュースでたまに見かける米軍軍事衛星による衛星写真の解像度に劣ってはいるものの、かなり高い。その衛星写真からは自分の住んでいる家だって発見できるし、車も把捉できている。さらに、マウスでカーソルを合わせると、合わせたその地点の経度・緯度が表示される機能も付いている。テロリストはこれらの機能に目をつけて、それを利用して英軍基地をピンポイントで攻撃したということだ。詳しい攻撃方法については書かれていないが、記事によると、英軍のある部隊のインテリジェンスオフィサーなる地位の人が言うには、「英軍の見解では、テロリストは、テントなど防御の弱い場所を特定するためにGoogle Earthを利用しているのだと考えている」そう。また、Google Earthから取り出した画像のプリントアウトの裏には英軍が配置されている建物の正確な経度・緯度がメモ書きされていたという。重ねて言うが、英軍がくらった攻撃は一体どのようなものだったのだろう。そこを書いてくれないとテロリストの攻撃とGoogle Earthの関連性があまりはっきりとイメージしにくい。インテリジェンスオフィサーとかいう人の発言だけ書かれてもよくわからない。

それにしてもGoogleには驚愕。GoogleによるITインフラの革命によって、軍事的に転用可能な技術が裏社会というアンダーグラウンドな世界だけで流通するものにとどまらず、普通にネットでアクセスできるようになったのだ。Google Earthに限らず、専門性が高すぎたり、費用があまりにも高すぎたりするが故に公的な機関や少数の者しか持てなかった「特別な技術」が、Web2.0の到来により、その敷居が官ではない民の普通の人たちまで下がりつつあるように思われる。


テロ目的であれ何であれ、そのような技術を民間で有効に活用しつくす人は今のところそう多くはないと思われるが、技術の門戸を広く開放することについては、何だか無条件に「いいなぁ」と思ってしまう。
しかし、何だか「いいなぁ」と感じるこの態度に、むしろ小さな違和感や不安を感じる。やたらめったら「民主化」してもいいのだろうか。

やはり民主化というイデオロギーは強力。思考回路にも浸透する。でも、強力すぎて何だか逆にちょっと怖くなってしまう。