20070531

[本]斉藤環『心理学化する社会』

  • 昨今は「心理学ブーム」
  • 動機のはっきりしない事件が起こったとき、三十年くらい前なら、事件についてコメントを依頼されるのは、小説家や評論家であったが、いまや、心理学者や精神科医にコメントが求められることが多い。それは「 「誰が人間の専門家か」 という意識が変わりつつあるためだ。」「心理学者が人間について最もよく知るものという役割を、社会的に期待されるようになってしまったのだ。」3
  • 「他人に向けて自らのトラウマ、すなわち心の傷について語ったり、あるいは自らを傷つけて見せ、その傷を公衆の面前にさらけ出して、いっそう傷を広げたりするような行為。こういう、いくぶんグロテスクな身振りが、作品や表現として多くの人に受け入れられはじめている。」5
  • 「多くの人々が「トラウマ語り」に魅了され、それを語ることでそこから癒されたがっているという状況」「トラウマのインフレーション」6
  • いまや「普通」は「物語の空白地帯」であり、そのことが人々の言葉から強度を奪ってしまうというのだ。」20
  • 「悪いのは「トラウマ」ではない。その取り扱いが、一種の紋切り型としてパターン化されていく過程のほうが問題なのだ。そして、予測可能なパターンのこれほどまでの蔓延は、それが作家の怠惰でなければ、物語の堕落以外の何ものでもないだろう。」21
  • 「トラウマ的な体験を描写する際、(村上春樹のように)なぜ残虐さが必要になるのか。それはトラウマが本来、安易なイメージ化にそぐわない、直視できない性質のものだからである。要するに彼らはちゃんと「語り方」を心得ているし、その節度ゆえに信頼に値するのだ。フィクションにおけるトラウマをめぐる問題は、どうやらその扱い方、語り方の問題とうことになるのではないか。」22
  • 「人々は、なんらかの方法で、心を実体化、あるいは可視化したいと願っている。心というつかみ所のない存在に形を与えながらドラマを構成しようとすれば、トラウマこそがうってつけの素材であることは論をまたない。」56
  • 「まず、いかなる描写であれ、けっしてトラウマは観客に共有され得ないことを忘れるべきではない。それはあくまでも観客の享楽のために描かれるのであって、告発や風刺とトラウマは原則的に相性が悪い。また、虚構としてトラウマを描くとき、精神医学的な正確さはむしろ物語を殺してしまう。それは必ず、教科書的な図式の退屈な反復に陥ってしまうだろう。トラウマがいかなる効果をもたらすか、ここにおいて作者の創造性が最大限に発揮されるべきなのであり、専門家による「荒唐無稽」といった悪口を恐れるべきではない。(略)逆に、復讐や悪事の動機としてトラウマを描くことは、映画を台無しにするための近道である。動機としてのトラウマは、最悪の図式の一つであるからだ。むしろ人物のキャラクター設定や、サイドストーリー的な要素として取り込むほうが効果的である。つまるところ、トラウマを扱う際の最大の原則は、「トラウマそのものを直接に描いてはいけない」ということに尽きるだろう。なぜならトラウマが効果を発揮するのは、それが常に「覆われた状態」において、であるからだ。」54
  • 「いまや人々は、何かを強く欲することで行動するのではない。物語を動かす道具立てとして、単なる性欲や物欲-つまり「金と女」-ではすでに力不足なのである。そして、これらに代わって人々を動かすもの、それこそが「トラウマ」なのではないだろうか。そう、われわれはもはや不可能になった「大きな物語」にかわり、たとえばトラウマにはじまる「小さな物語」のほうを欲し始めているのだ。」57



  • 社会学的視点から見た社会の心理学化 筆者が引用した樫村愛子氏の著作から孫引き「教育・福祉・家庭などの様々な領域で心理療法の技術が多く使用されるようになり、文化の中での心理療法的言説の比重が大きくなってくるような状態」168
  • 「そのとき心理学は、社会が共有している幻想の舞台裏を暴いて解体してしまうが、心理学そのものが別の秩序や幻想をもたらすことになる。」168
  • 「当時(大正時代)の心理学(ブーム)にはもう一つ重要な役割があって、それは軍隊の適正検査だった。戦争神経症しかり、PTSD概念しかり、心理学や精神分析は戦争によって進歩してきたともいえるだろう。」169
  • 「 「人の心を知りたい」欲望は、心理学の知識が蓄積され、多様化し、さらに一般に普及するにつれて、いよいよ高まる。」「ブームが必ずしも進歩の証とは考えない。むしろ、進歩が不確実だからこそ、ブームが起こるのかもしれない。」169

  • 「20世紀は精神分析の世紀とも呼ばれたが、それは同時に、「精神分析以後の世界」であることも意味している。」
  • 「僕たちは、いまや精神分析的な知識に基づいて自己分析し、抑圧の鎖を自分で解き放ってみせる。」170
  • 「たとえばネット上の匿名掲示板などは、人々がどのように振舞うことで抑圧を解除したつもりになれるのか、その見本市のようなものだ。弱者への差別的な罵倒、近親相姦を含むさまざまな欲望の表明、残虐な暴力衝動の発露。しかし多くの掲示板が匿名であることを考えるなら、そんなふうに「抑圧しない」身振りで、人々が何を抑圧しようとしてるのが、そちらの方を考えてしまいたくなる。抑圧しないこと」によって隠蔽されるもの。それこそが倫理の審級としての「無意識」ではないだろうか。彼らは単に露悪的なのではない。自己分析に基づく「邪悪な欲望」の告白によって、「倫理的に振舞いたい」という、本来的な欲望を隠そうとしているのだ。あるいはそこには、「欲望の不在」への欲望が隠されているのかもしれない。ともあれ精神分析以後の世界では、僕たちの欲望もこんなふうに、はじめから精神分析化を被ってしまう。」「精神分析プレイ」171
  • 「フロイトも指摘しているように、誰にとっても「自己分析」は不可能」「治療関係こそが分析の本質なのであって、自己分析は一般論にしかならない。そして一般論というものは、ついには自分にとって都合のいい解釈でしかないのだ。」171
  • 「断っておくが、ネガティブな解釈のほうが「都合がいい」ことだって珍しくない。たとえば自罰的なことばかり言う人が、全然謙虚じゃなくて、むしろかたくななことが多いのは、その人にとって「自罰」のほうが「都合のいい」事情があるからだ。」171

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