20070526

[本]東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』

途中


なにやら、オタクとポストモダンなんちゃら。ポストモダンにおいて物語的な想像力がどのように展開していくかのパースペクティブ、みたいな。


序章/議論の導入
・「ポストモダンの進展とオタクの出現は、時期的にも特徴的にも関係している。」16
・ポストモダン=「大きな物語」の衰退
・「十八世紀の末から一九七〇年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統の共有で確保されていた。ひとことで言えば、きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。」17
・「ポストモダン論の提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有すべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである。」19
・「しかし、一九七〇年代以降の「ポストモダン」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる、別の感性が支配的となる。そして、日本でも一九九〇年代の後半からその流れが明確となった。」18
・「ポストモダンにおいても近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダンの相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。」19
・「ポストモダンにおいては、すべての「大きな」物語は、ほかの多様な物語のひとつとして、すなわち「小さな物語」として流通することが許されている(それを許せないのがいわゆる原理主義である。)ポストモダン論は、このような状況を「大きな物語の衰退」と呼んでいる。」20
・「現在の日本では、オタクたちの作品や市場が、そのようなポストモダンの性格をもっとも克明に反映し、表現や消費のかたちをもっとも根底的に変えている。」17
・「したがって筆者は、二〇〇〇年代の物語的想像力の行方について考えるために、まずは、その物語の衰退にもっとも近くで接しているはずの、オタクたちの表現に注目するべきだと考える。これが本書の出発点である。」17


筆者によるライトノベル考察
・「キャラクターのデータベースを環境として書かれる小説」45
・キャラクターのデータベース=キャラクターの自律化と共有財化。作品と作品のあいだに広がる想像力の環境。
・キャラクターの自律化=「キャラクターの性質がドラマ(の可能性の束)に優先していく」41、「物語ではなく、キャラクターのほうが基礎的な単位として感覚される」42
・「ライトノベルの作家と読者は戦後日本のマンガやアニメが育て上げてきた想像力の環境を前提としているために、特定のキャラクターの外見的な特徴がどのような性格や行動様式に結びあわされるのか、かなり具体的な知識を共有している。」45、「描写とキャラクターのデータベースのあいだで仮想的な対話を行い、その結果そのものを文章のなかに組み入れて描写」、語り手と読み手のあいだの一種の共犯関係
・ライトノベルのキャラクター 「個々の物語を超えたデータベースの中に存在している。少なくともそう想像されている。」「さまざまな物語や状況のなかで外面化する潜在的な行動様式の束」
・ゆえにどのジャンルにも登場できる。
・製作において、作品(物語)の層と環境(データベース)の層が別々に存在する環境におかれている。


ライトノベルとポストモダンの関係
・「オタクたちが作り上げたキャラクターのデータベースは、まさに、決定的なひとつの物語を成立させないにもかかわらず(キャラクターが物語を逸脱してしまうと言う意味で)、複数の異本としての物語をつぎつぎと成立させてしまう(ひとりのキャラクターから複数の物語が生成すると言う意味で)という点で、ポストモダンの物語製作の上限を体現する存在だと言える。」50
・「筆者はポストモダンでは「大きな物語」が衰えるため、小さな物語はむしろ増殖し氾濫するように見えると指摘した。」50
・「 「ライトノベルはポストモダン的な小説である」という本書の主張は、必ずしも作家がその位置を自覚していることを意味しない。作家のひとりひとりは締め切りに追われながら、より売れる小説、より人気の出る小説を作ろうと努力しているだけかもしれない。しかし、その素朴さゆえに、ライトノベルの想像力はオタクたちの動物的な消費原理を、すなわちポストモダンの時代精神をみごとに反映してしまう。」50
・「ライトノベルのポストモダン的な性格を、小説内容そのものにではなく、小説と小説のあいだの環境に見ている(略)。」53

・「いわゆる「ポストモダン文学」は、小説の内部でいくら前衛的な実験を行っていたとしても、現実には保守的な文学作品として流通している。彼らの小説は文芸誌に掲載され、文学賞を受賞し、大学で教材として取り上げられる。その環境はポストモダンの条件からほど遠い。」
・「ライトノベルは、かりにその小説の内容こそ類型的な凡庸なものだったとしても(略)その制作や流通の過程は近代文学のそれから大きく離れている。」53


「まんが・アニメ的リアリズム」なるもの
・大塚英志がライトノベルを論じるに当たり導入した概念
・ライトノベル以外の小説はすべて現実を「写生」するものであると捉え、一方でライトノベルは「アニメやコミックという世界の中に存在する虚構を「写生」する」ものと捉える。
・虚構の写生
・自然主義的リアリズム-描写の起点としての「私」を必要とする創作手法
 まんが・アニメ的リアリズム-「私」や生身の身体を持つ人間ではなく架空のキャラクター 58

コミュニケーションとしてのリアリズム
・公共性-「人間と人間が、共同体的な限界を超えて出会う場所」
・近代社会もポストモダンの社会も、村落共同体を超えて成立する巨大な組織なのだから、必然的にそのような場所を必要とする。」
・稲葉振一郎氏によれば近代文学の自然的リアリズムも、ポストモダンのまんが・アニメ的リアリズムも、まさにその場所を作り出す装置として解釈できる、と筆者は言う。
・「表現はそのまま現実を向かいあうわけではない。いかなる表現も、市場で流通するかぎり、発信者と受信者のコミュニケーションを抜きにしては成立しない。」62
・「自然主義文学の作家は、現実を描くべきだと感じたからでなく、現実を描くとコミュニケーションの効率がよいので、現実を写生していた。同じようにキャラクター小説の作家は、キャラクターを描くべきだと感じているからではなく、キャラクターを描くとコミュニケーションの効率がよいので、キャラクターを参照している。」62
・「架空世界のガジェットからなる「データベース」は、今日の文芸の世界において、ある意味ではほとんど「現実世界」の代替物と言いうるほどのところにまで発達してきてしまっているのです。」62
・大塚はコミュニケーションの効率性の基盤それぞれを「リアル」と呼んだと理解すればいい。63

・公共性を得るまでに発達したキャラクターの「データーベース」。それは戦後のアニメ・マンガの想像力が育て上げてきた。

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